2018年11月11日

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(社説)原発事故裁判 運転の資格あったのか(2018/11/10朝日新聞)
 福島第一原発事故をめぐる刑事裁判は、来週にも証拠調べを終え、最終段階の論告と弁論に進む見通しだ。先月には、検察審査会の議決によって強制起訴された、当時の東京電力幹部3人の被告人質問があった。
 浮かび上がったのは、巨大津波が襲来する可能性を指摘されながら、誰一人として責任感をもって向きあわず、結果として悲惨な事態を招いた旧経営陣の信じがたい姿だ。
・・・ 刑事手続きで自らの不利になることは話さなくていい。憲法も保障する権利だ。それでも、連ねられた否定の言葉の中には思わず耳を疑うものがある。
 たとえば、3人が出席したある会議では、目次に津波対策と明記した資料が配られていた。だが3人とも目にした記憶はないという。津波について部下が自分にあてて送ったメールの写しを示された武藤元副社長は、「読んでいない。(そういうメールがあると聞き)事故後に探したが、なかった」と答えた。
 これらがすべて真実なら、何よりも安全に鋭敏であるべき原発の運転者として、無責任かつ無能のそしりを免れまい。
・・・ 3人が問われている業務上過失致死傷の罪が成立するか否かは、裁判所の判断にゆだねられる。だが刑事責任の追及とは別に、判明した新たな事実関係を踏まえ、事故の全体像に改めて迫る取り組みが不可欠だ。
https://digital.asahi.com/articles/DA3S13762711.html?iref=comtop_shasetsu_01



安田さんの「謝罪」に外国人記者疑問視 特派員協会で質問相次ぐ(2018/11/10東京新聞)
 内戦下のシリアで二〇一五年に拘束され、三年四カ月ぶりに解放されたジャーナリスト安田純平さん(44)が九日、東京都内の日本外国特派員協会で記者会見した。海外の記者からは「やるべき仕事をした」との称賛の声が出た一方、「自己責任論」や安田さんが謝罪したことへの疑問の声が相次いだ。
 日本で通信社を運営するマイケル・ペン氏は、国際ジャーナリスト組織「国境なき記者団」が安田さんは「謝罪すべきではない」とする声明を出したことを紹介。「日本社会が期待するものと国際社会や報道の世界が期待するものとは異なる常識があるようだ。国際的なジャーナリストとして謝罪は本当に必要だと思うのか」と質問した。
 安田さんは「私の行動にいくつかのミスがあったことは間違いない。その点で、おわびを申し上げた」などと説明した。
 イタリアのテレビ局からは、安田さんと同じ施設に拘束されていたイタリア人男性アレッサンドロ・サンドリーニさんに関する質問が出た。安田さんによると、サンドリーニさんは今年七月五日に連れてこられ、安田さんが同施設を出た九月二十九日には、まだいた。
 安田さんは「元気そうだったが、時々泣いていることもあった」とサンドリーニさんの様子を振り返った。言葉は交わさなかったが目線でコミュニケーションを取ったといい、帰国後、東京のイタリア大使館に情報を伝えたことを明らかにした。 
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/201811/CK2018111002000127.html



【社説】原発延命 「原則40年」は、どこへ(2018/11/10東京新聞)
 原子力規制委員会が、日本原子力発電東海第二原発の運転延長を認可した。今のところ“不合格”になったケースはない。延命は、特別厳しい審査に通ったものだけの「例外」ではなかったか。
 またか、という印象だ。
・・・ 一回限り、最長二十年の延長は、「例外中の例外」(当時の原発担当相)だったはずである。
 これまでに延長申請があったのは、関西電力高浜1号、2号、同じ関電の美浜3号、そして今度の東海第二で四基。合格率100%である。「例外中の例外」が、のっけから四連続。四十年の原則を守ったものは、いまだない。
 その中で、東海第二はさらに例外、あるいは特別だ。
 福島第一原発と同型、沸騰水型としては初の延命認可。東日本大震災で被災した原発というのも初めてだ。津波の被害に遭って、福島同様、外部交流電源と非常用電源の一部を失った。
 その時の強い揺れによる原子炉への影響も、本当にないのかどうか、不安が残る。
・・・ 規制委の審査には通っても、再稼働へのハードルは低くない。
 那珂市長が再稼働に反対の声を上げたのは無理もない。
 それにつけても、規制委の姿勢には疑問が残る。
 そもそも、原子炉という設備自体、六十年もの使役に確実に耐えうるものなのか。
 炉内を飛び交う中性子は内側からダメージを与え続けているという。原子炉本体を更新することは、事実上不可能だ。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2018111002000144.html



玉城氏「とことんやる」 官房副長官と副知事初協議(2018/11/10東京新聞)
 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)移設に伴う名護市辺野古での新基地建設を巡り、杉田和博官房副長官と同県の謝花(じゃはな)喜一郎副知事が九日、東京都内で会談した。菅義偉(すがよしひで)官房長官が記者会見で明らかにした。菅氏と玉城デニー知事が六日に合意した国と県との集中協議の初回。菅氏は会見で「双方の考え方を説明した上で、今月末に向けて、できる限り話し合いの機会を設けることで合意した」と説明した。玉城氏は九日、安倍晋三首相も出席し官邸で開かれた全国知事会議に参加。首相は会議後、玉城氏に「いろいろ話をしていきましょう」と声を掛けた。
 玉城氏は記者団に「どのような意見交換ができるか、とことんやりたい。司法に任せると、司法決着の道しかなくなってしまう。何をどう埋めるかはまさにこれからだ」と話した。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201811/CK2018111002000132.html



<社説>主席公選から50年 民意の力が状況打開する(2018/11/10琉球新報)
 沖縄全住民の代表を直接選ぶ主席公選が1968年11月10日に実施されてから50年が経過した。米国の施政下にあった沖縄では、現在の知事に当たる行政主席を、高等弁務官が任命していた。
・・・ あれから半世紀。72年に日本に復帰して社会資本が急速に整備されたものの、米軍基地の過重な負担は今も続く。銃剣とブルドーザーで土地を接収し基地を建設した米軍に代わって、今度は日本政府が新たな基地の建設を強行しようとしている。
 
 主席選挙では「即時無条件全面返還」を訴えた革新統一の屋良朝苗氏が、本土との一体化政策を掲げた沖縄自民党の西銘順治氏を退けた。日本政府と本土自民党がかつてない態勢で西銘氏を支援し、川島正次郎、福田赳夫、中曽根康弘の各氏ら有力政治家を次々と送り込んだ。自民党から多額の資金が保守勢力に供与されたことが後に明らかになる。
 「沖縄の歴史に大きなエポックを印した結果であり、その一日であった。(中略)殺到する権力、金力に完全に打ち勝ったのである」。当選が決まった11月11日、屋良氏は日記につづった。
・・・ 米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設に伴う新基地建設問題は、移設反対を掲げた玉城知事が過去最多得票で当選したことで、反対の民意が改めて明確に示された。
 にもかかわらず、政府は「辺野古が唯一の解決策」という硬直した姿勢を崩そうとしない。安倍晋三首相は「沖縄の皆さんの心に寄り添う」と繰り返し発言しているが、移設計画の見直しを米側に提起しない限り寄り添ったことにはならない。
 「辺野古移設は日本の国内問題」というのが米国の基本的なスタンスだ。このことは、日本の意思で移設先を決められることを意味する。
 米国が主席公選を認めたのは、自治権拡大の象徴として県民が粘り強く訴え続けたためだ。民意の力は大きい。玉城知事はその点を肝に銘じて政府と向き合ってほしい。
https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-831852.html



愛楽園開園80年 隔離の地 生きた72年 渡嘉敷トシさん 差別と孤独 国策に翻弄され (2018/11/10琉球新報)
 【名護】名護市済井出のハンセン病療養施設「沖縄愛楽園」開園から10日で80年となった。1907年、国は「ライ予防ニ関スル件」を公布した。ハンセン病を「国の恥」と宣伝し「浄化」として患者の強制隔離を進めた。愛楽園でも次々と患者が強制収容され、96年に「らい予防法」が廃止されるまで自由に生きることを許さなかった。46年に強制収容された渡嘉敷トシさん(93)は入所以来、72年間、一度も園外で生活したことはない。「ここから出ようとは思わない。つらいこともあったけれど収容されるまで一人きりで生きていたから」。戦争と強制隔離という名の国策に翻弄(ほんろう)されてきた。報道機関の取材に初めて自らの人生を語った。

 渡嘉敷さんは1925年、兵庫県に生まれた。ハンセン病を患っていた父親の病状が悪化し、6歳で両親の古里、沖縄に戻った。現在の南風原町で暮らし、父は人力車の車夫として働いた。「あまり稼げなかった。父はハンセン病の症状が顔に出ていたから、病気がうつると言われ客も寄りつかなかった」。父親の病状は悪化し、生活費を得るため渡嘉敷さんは12歳で那覇市の辻遊郭に売られた。・・・
・・・ 再び一人になった。「病気もある。生きていても仕方ない。死んだ方が楽だ」。そう考えていたころ、旧大里村(南城市)の収容所でハンセン病患者と周囲に知られた。愛楽園に強制収容された。

 「殺される」と思った施設での暮らしが孤独を忘れさせた。「みんなで畑して、ご飯も食べて。ぼろぼろじゅーしーをよく食べた」

 23歳で結婚した。相手も入所者だ。「園内で免許を取った後、ドライブに連れて行ってくれた」。本島中を回ったことを今も思い出す。

 90年に夫は亡くなったが、2人の間に子どもはいない。理由を尋ねると「ここは子どもを産ませなかったから」。ぽつりと言うだけだった。

 元患者にとって園は自由に生きる権利、尊厳を奪われた象徴だ。一方、互いに支え合って泣き笑い、たくましく生き抜いた人生も刻まれている。

 「もう70年暮らしている。園は家で入所者は家族よ。自由に楽しく生きていきたい」と語った。・・・
  沖縄愛楽園  青木恵哉氏が開いた土地を基に1938年に県立国頭愛楽園として開園。米軍統治、琉球政府時代を経て、72年復帰に伴い国立療養所沖縄愛楽園となった。園に強制収容された患者は退所も外出も許可されず、断種・堕胎が強要されるなどの人権侵害が行われた。強制隔離は96年に「らい予防法」が廃止されるまで続いた。
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-831963.html


posted by オダック at 10:08| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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