2019年05月20日

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【国際】「占領軍 攻撃するしか」 2004年イラク陸自砲撃の元民兵(2019/5/20東京新聞)
 米軍がイラクに侵攻した翌二〇〇四年、南部サマワに派遣された陸上自衛隊は、イスラム教シーア派民兵の砲撃や爆弾に苦しんだ。「人道復興支援」を掲げる陸自をなぜ、米軍と同じ「占領軍」とみなして攻撃したのか。派遣開始から十五年。元民兵らがサマワで共同通信の取材に応じ「日本を尊敬しているが、軍を派遣するなら攻撃するしかなかった」と証言した。
 サマワは国内で最も貧しいムサンナ州の州都で、人口約十五万人。陸自は〇四年一月から〇六年七月まで駐留し、病院や学校、道路の修復や給水などの復興支援に従事した。
 市民の多くは「日本が来なければ誰も助けてくれなかった」(非政府組織の代表者)と感謝を口にする。だが支援の象徴だった大型火力発電所は部品故障で一三年に稼働を停止。整備した浄水場のモーターも壊れていた。
 四月の夜、サマワの貧困地区にある民家で七人の元民兵が取材に応じた。「私は日本の宿営地にロケット弾を撃ち込んだ」。失業中のサレハ(33)は、記者にお茶を勧めた後そう話し始めた。
 七人はシーア派の反米指導者サドル師派の民兵組織「マハディ軍」の元メンバー。うち二人は駐留オランダ軍に親族を殺害された。米軍に拘束された者も含め警官や技術者などさまざまな職業に転身している。
 マハディ軍は陸自宿営地を十回以上砲撃し、車列にも爆弾攻撃をした。陸自側に死傷者はなかったが「甚大な被害に結びついた可能性もあった」(陸自の「イラク復興支援活動行動史」)。
 当時十代前半だった最年少のアハメド(28)は「戦後復興を果たした日本はイラクの手本。民間支援なら歓迎された」と振り返る。警官になったメイサン(33)は「道路や病院の修復には感謝する」と話した。
 だが年長のハッサン(45)は「日本から来たのは軍隊。占領軍を受け入れる者はいない」。サレハは「攻撃で日本の世論を動かし、政府への撤退圧力とすることが狙いだった」と説明した。
 日本が陸自派遣に踏み切った背景に、イラクへの「ブーツ・オン・ザ・グラウンド(地上部隊派遣)」を求める米政府の意向があったことも、元民兵らは把握していた。
 「日本は部隊派遣を米国に強制され、派遣が国益にかなうと考えたのだろう」。一人がそう言うと、ハッサンは「だからといってサマワを(日米協力をPRする)劇場として使うなど許せるわけがない」と訴えた。  
https://www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/201905/CK2019052002000119.html



(声)詩と共にあるイランの暮らし(2019/5/20朝日新聞) 無職 鈴村明子(神奈川県 70)
 イランへのツアーに参加したのは4月だった。かつてのペルシャ。子供の頃に愛読した「アラビアンナイト」、高校時代に図書館で見つけた「ペルシャ詩集」の国だ。

 古都シラーズでは、14世紀の叙情詩人ハーフェズの廟(びょう)に行った。「コーランのない家はあっても、ハーフェズ詩集のない家はない」と言うほど国民的な詩人。人が絶えない廟の前で、ガイドのアリ氏が彼の詩を読んでくれた。いただいた日本語訳を読むと、死をも超える美しい愛の詩だった。「そなたの芳香(かおり)で私は墓から踊りながら起き上がろう……」

 最終日の観光地で出会った若者が、シラーズから来たという。先の詩を読んでくれと頼むと、驚きつつも笑顔で朗唱してくれた。

 集合場所近くでは、若い女性に「焼きたてのナンを買ったので味見を」と声を掛けられた。母親とやはりシラーズから来たという。ハーフェズに再登場願うと母親は頬を赤めて朗唱し、私を抱きしめてくれた。

 イラン情勢が緊迫しているが、どこにも生身の人間の暮らしがある。それを壊す権利が誰にあるのか。紛争は軍事力で解決できないし、またしてはならない。
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14021561.html?ref=pcviewpage



(社説)裁判員制度10年 司法と市民、鍛え合って前へ(2019/5/20朝日新聞)
 戦後最大の司法の変革である裁判員制度が始まって、あすでちょうど10年になる。
 これまでに約9万人が裁判員を経験し、1万2千人の被告に判決が言い渡された。運用はおおむね順調といえるが、浮かびあがった課題も少なくない。
 刑事裁判にふつうの人の感覚や視点を採り入れることによって、市民との距離を縮め、司法を真に社会に根ざしたものにするために、この制度は導入された。今後も不断の検証と改善に取り組まなければならない。

 ■交錯する光と影
 10年間の最大の成果は、裁判がわかりやすくなったことだ。
 警察や検察が作った供述調書に頼らず、公開の法廷でのやり取りや客観証拠をもとに、検察が有罪を証明できているかを見きわめる。刑事裁判の本来の姿が、関係者の間で広く共有されるようになった。
 捜査側が持つ証拠を弁護側に開示する手続きが整備され、被告と弁護人がしっかり準備できる環境を整えるため、保釈が認められやすくなった。言った言わないの争いをしなくて済むように、取り調べ状況の録音録画も行われることになった。
・・・ 量刑面でも変化があった。介護殺人などで被告の事情をくんだ判決や、更生への期待を込めた保護観察つき判決が増えた。逆に人間の尊厳を踏みにじる性犯罪の量刑は重くなり、一昨年の刑法改正にもつながった。市民参加の果実といえる。
 一方で裁判員らが導き出した量刑が、高裁さらには最高裁で破棄されるケースも目につく。過去の判決例から逸脱し過ぎていると指摘されるものが多く、公平性と市民感覚をどう両立させるかが問われている。
・・・ 一審の裁判官は、刑の均衡の大切さについて裁判員にどんな説明をしたのか。それでもなお過去の基準にとらわれるべきではないと判断した事情を、判決の中で説得力をもって明らかにしているか。かたや上級審は、市民が得心できる理由を示したうえで覆しているか。
 直接、間接の対話を通じて相互の理解を深める努力が、いま改めて求められている。

 ■問われる法曹三者
 制度の今後を考えたとき、一番の懸念は参加率の低下だ。
 裁判員の候補者に選ばれても辞退する人は、当初の53%から67%に。辞退の手続きをしないまま呼び出し日に欠席する人も3割を超える。最高裁は「運営に支障はなく、裁判員の属性も大きく偏ってはいない」というが、軽視できない事態だ。
・・・ 裁判員事件の審理日数の平均は、制度がほぼ軌道に乗った2010年の4・2日から、昨年は6・4日になった。丁寧な審理を望む裁判員の声に応えてきた面があるにせよ、長くなれば参加できない人は増える。
 裁判に先立ち、裁判官、検察官、弁護人の法曹三者で、争点や提出する証拠を絞りこむ公判前整理手続きにかかる期間も、同じく延びている。公判の開始が遅れるほど関係者の記憶は薄れる。わかりやすい法廷をめざすための手続きが審理の質を損なうことになれば、本末転倒と言わざるを得ない。・・・

 ■導入の原点忘れずに
 市民参加の意義は、刑事司法の改革にとどまらない。
 司法に対する国民の理解と支持を高め、立法や行政に対峙(たいじ)する基盤を強める。市民も司法権の行使に直接関与することで、民主主義の担い手として成熟する。それも狙いとされた。
 だが実現はなお遠い。
 例えば民主政治の根幹に関わる一票の格差訴訟で、最高裁は国会に是正を迫る姿勢をむしろ後退させている。憲法の理念に基づき少数者の権利を守るという、司法本来の使命を忘れた判断が下級審も含め散見される。期待外れと言うほかない。
 市民の側に目を転じると、裁判員経験者からは、犯罪やそれを生んだ社会問題を「わがこと」ととらえ、考えるようになったとの声が多く聞かれる。一方で容疑者・被告への過剰なバッシングや、人権や民主主義を語ることを揶揄(やゆ)したり、おとしめたりする風潮が強まり、世の中に暗い影を落としている。・・・
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14021559.html?iref=comtop_shasetsu_01



【社説】市民裁判員10年 民主主義を学ぶために(2019/5/20東京新聞)
 裁判員制度が始まって十年になる。プロ裁判官だけの刑事裁判の世界に市民たちが風穴を開けるか期待された。民主主義を学ぶ学校であることも。
 フランスの思想家モンテスキューの名著「法の精神」の一節…。
 <裁判権力を身分や職業に結び付けないで、一年のある時期に選ばれた市民に担わせるべきだ>
 十八世紀の書物だが、市民の司法参加は現代では先進諸国で広く行われている。米国の陪審制、西欧の参審制…。日本では一九八〇年代に確定死刑囚の再審で四件の無罪判決が出て、「プロ裁判」のほころびがあらわになった。刑事法の泰斗で、元東大学長の平野龍一氏は八五年にこう記した。
◆市民感覚の変化が
 <陪審制や参審制でも導入しない限り、わが国の刑事裁判はかなり絶望的である>
 裁判官は捜査結果を追認するだけに終わり、それが冤罪(えんざい)の原因になっていると…。「真実を見抜く眼力を持っていると裁判官が考えるのは自信過剰」とも記した。
 刑事裁判に市民の感覚を反映させる目的で、二〇〇九年五月二十一日に導入されたのが裁判員制度だ。二十歳以上の有権者から選ばれた市民六人が、裁判官三人とともに審理する。・・・
 裁判員は捜査結果の追認ではいけないし、真実を見抜く眼力も欲しい。プロ裁判官と違い、市井の人として、それぞれの良識を生かしたい。
 この十年間で、裁判員裁判は一万二千件を超え、裁判員は補充裁判員も含め約九万一千人。プロ裁判官のみの刑事裁判と比較して変化はあった。
 例えば「介護殺人」など家族間の事件で情状酌量の判断が多く示された。これはまさに市民感覚の反映であろう。性犯罪では重罰へと進んだ。
◆死刑判決は全員一致で
 裁判官裁判時代では強制性交等致死傷罪(強姦(ごうかん)致死傷罪)の量刑が懲役五年以下が最多だったのに、懲役七年以下へと重くなった。全体では死刑が三十七件、無期懲役が二百三十三件、無罪は百四件だった。
 一方で、裁判員の候補者が辞退する割合は、制度が始まった〇九年の53・1%から年々上昇し、速報値では68・4%に上った。事前に辞退しなかった候補者が、選任手続きのため裁判所に出向く出席率も、〇九年の83・9%から66・5%に減った。
・・・ 問題は公判前の整理手続きできちんと争点が絞り込まれているかどうかだ。裁判員制度で劇的に変化したのは「調書裁判」から「公判中心主義」への脱皮だ。供述調書に過度に依存した裁判から、法廷で直接、話を聞く裁判へと変わり、わかりやすくなった。
 だから、事前に争点がきちんと絞り込まれていれば、裁判員の審理日数もおのずと減るはずである。一八年には公判前整理手続きの期間が平均八・二カ月もあり、議論が拡散傾向にないかと指摘されている。制度に関し、指摘すべき点はまだまだある。
 例えば、死刑判決についてだ。誤判なら取り返しのつかない刑罰だけに、死刑については多数決ではなく、本来は全員一致での評決にすべきであると考える。
 また米国では陪審員が比較的自由にメディアの前で評議の中身を語ったりする。だが、日本では守秘義務が課せられ、広く社会に自分の経験を語ることができない。
 裁判員の経験を「良い」と答える人は95%以上もいるのに、それが社会に響かないのは、守秘義務の鎖で、口を縛られているからではないのか。制度理解のためにも、もっと語らせるべきだ。
◆人民のための学校だ
 十九世紀のフランスの政治思想家トクヴィルは米国の陪審制についてこう記した。
 <人民の審判力を育成し、その自然的叡智(えいち)をふやすように役立つ(中略)無料の、そして常に公開されている学校のようなものである>
 単なる裁判ではなく、民主主義を養う人民の学校であると看破した。日本の裁判員制度もまた同じであろう。長い歴史を持つ陪審と比べ日本はまだ十年だ。民主主義を成熟させる良き学校としたい。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2019052002000154.html



<社説>ハンセン病市民学会 差別や偏見なくす契機に(2019/5/20琉球新報)
 ハンセン病に対する差別や偏見をなくすとともに、学校や社会で正しい知識を伝えるための啓発活動に取り組み、地域全体で人権を守る意識を醸成する契機としたい。

 全国のハンセン病回復者や支援者らでつくる「ハンセン病市民学会」の第15回総会・交流集会が3日間の日程で石垣市と宮古島市できょうまで開かれている。
 市民学会は基本的には療養所がある場所での開催だったという。今回初めて、療養所のない石垣市で初日の集会を開いた。これには、療養所のない場所でもハンセン病に対する啓発を進めたいとの主催者の強い思いがあった。
 シンポジウムで語られた回復者の体験は悲痛なものだ。石垣市出身で、鹿児島県の星塚敬愛園に入所する上野正子さん(92)は、結婚の報告のため帰省した際、曲がった手のせいで両親に押し入れに隠れるよう命じられた。
 宮良正吉さん(73)は回復後も病歴を隠し続けたが、2001年の国家賠償訴訟の後、大阪で語り部として差別をなくす取り組みを始める。「回復者やその家族はいまだに根深く続く差別・偏見の中で身を隠すように生きている」と証言した。
 ハンセン病は戦後、特効薬が開発され、治る病となった。しかし国は患者の強制隔離政策をとり続けた。隔離政策がハンセン病への恐怖感を植え付け、差別を生み、患者や回復者、その家族をも苦しめてきた。
 ハンセン病患者の強制隔離を約90年にわたって合法化した「らい予防法」が廃止されたのは1996年だ。だが、ハンセン病に対する社会の差別や偏見は完全には払拭(ふっしょく)されていない。
 その証左の一つはハンセン病家族訴訟だ。5月31日に熊本地裁で判決を迎える家族訴訟の原告561人のほとんどは匿名だ。社会に出て証言できない家族たちの苦しみもいまだ存在する。29人の証人尋問では一家離散や学校でのいじめ、婚約破棄、離婚に追い込まれるなどの実態が明かされた。
 市民学会が行政に求めたように、偏見・差別の解消に向けた啓発活動が重要だ。回復者の里帰りを支援すれば交流によって理解を深めることもできる。
 また、療養所以外にはハンセン病の症例を経験した医師が少なく、後遺症の治療が地域で受けにくいといった問題もある。回復者に対する医療やカウンセリングなどの支援も必要だ。
 治る病となった後も、回復者とその家族が差別にさらされてきたのは私たちにも責任がある。
 差別をする側は往々にして、差別を受ける側の苦しみやつらさに無関心だ。悲惨な境遇に見て見ぬふりをし、悲痛な叫びに耳を傾けてこなかった。国の隔離政策を放置してきたのは私たち社会の問題だと自覚したい。
https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-921193.html


posted by オダック at 20:57| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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