2019年12月05日

PICK UP NEWS

(声)公文書開示で説明責任果たせ(2019/12/5朝日新聞) 高校非常勤講師 阿久澤眞一(群馬県 65)
 内閣府では順番待ちをしなければならないほど、多量の文書が処分されているそうだ。40秒で1千枚も細断可能なシュレッダーで、だ。
 公文書管理法制定に尽力した福田康夫元首相が本紙(2018年6月9日)で語っていたように、公文書は国の歴史を積み重ねていく上で貴重な資料である。その貴重な「桜を見る会」の名簿について、各省庁は複数年保存しているのに、内閣府だけ1年未満なのはなぜか。
 内閣は官僚の人事権を握るなど、かつてないほど首相に権力が集中している。独裁的になる可能性が強く、だからこそ、公文書や議事録をきちんと残し、歴史の検証に堪えられるよう、後世に生かせるよう、自らにかせを掛けるべきではないか。批判されかねない行事が終わるとすぐに関連文書を処分するなどの行為は、敗戦の際重要文書を燃やした日本軍を思い出してしまう。
 国会で、文書の「ある・ない」でどれだけ無駄に時間を費やしただろう。優秀とされる官僚の頭脳を聞くに堪えない言い訳に使うのは国益に反しないか。公文書をいつでも開示できるよう徹底することが、国民への説明責任を果たす第一歩だろう。
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14282881.html?iref=mor_articlelink03



中村医師の妻「いつかありうるとは思っていたが…」(2019/12/5朝日新聞)
 NGO「ペシャワール会」現地代表の中村哲医師(73)が4日、突然の銃弾に倒れた。苦しむ人たちに向き合い、医師の役割を超えて農業支援にも活動を広げていった中村さん。現地・アフガニスタンでも高く評価されていただけに、交流があった人たちは「なぜ」と言葉を失った。
 福岡市のペシャワール会事務局で4日、記者会見した広報担当理事の福元満治さん(71)は悲痛な面持ちで「正直、信じられない。無念でしかたない。この事業は中村哲という人物でなければできなかった」と語った。
 干ばつにあえぐ大地に用水路を造り、1万6500ヘクタールの農地を潤した。現地の住民は中村さんに「畏敬(いけい)の念を持っていた」という。「30年以上やって現地の信頼が一番のセキュリティーだった。(事件は)アフガンのことを思うとありえないこと」。今後の活動については、「あくまで続けるのが中村医師の遺志であると思っている」としながらも、「事業を拡大していくのはなかなか難しいのではないか」とも話した。
 中村さんは「自分は好きで勝手なことをしているので、家族には迷惑をかけたくない」と周囲に話していたという。妻の尚子さんは報道陣の取材に「いつも家にいてほしかったが、本人はこの仕事にかけていた。いつもサラッと帰ってきては、またサラッと出かけていく感じでした。こういうことはいつかありうるとは思っていたが、本当に悲しいばかりです」と話した。
「あまりに大きな損失」
 中村さんの生き方に感銘を受けてきた多くの人たちからは、突然の死を惜しむ声があがった。
 「えっ、亡くなったんですか」。アフガニスタンなどで人道支援をする国際NGO「JEN」(東京都新宿区)の木山啓子事務局長は絶句した。「世界にとってあまりに大きな損失です」。現地の人々の健康を考えるなら、医療だけではなく穀物の栽培や灌漑(かんがい)など持続可能な解決策が大切だと、日本で会った時にアドバイスされた。「素晴らしい人をこんな形で失うなんて」
 福岡県朝倉市の徳永哲也さん(72)は、中村さんが地元の取水堰(ぜき)「山田堰」の近くに座り込み、何時間もながめていたのを覚えている。中村さんは同じような堰をアフガンにつくり、農地の再生を目指した。徳永さんは今秋、地元の土地改良区の理事長を退任。会の活動に協力するつもりで、4月には中村さんとアフガンの農地を視察していた。中村さんには武装した政府の警護者が常に付き、渋滞で止まった車をどかせるなど厳重にガードしていた。「政府がいかに中村先生を大事にしていたか。こういう状況の中での銃撃など信じられない」と絶句した。「活動がどうなるのか、影響は計り知れない。混乱して今は何も考えられない」
 上智大学の東大作(ひがしだいさく)教授は、2009年から1年間、国連アフガニスタン支援ミッションの政務官を務めた。「日本人に好意を持つアフガン人が多いのも、中村医師の活動が広く知られているから。一緒に働いた若者はみんな誇りに感じていた」と話す。
 01年の米同時多発テロ後、米英軍はアフガンを空爆した。タリバーン勢力は05年ごろから息を吹き返し、08年には国土の7割が「政府ですら危なくて行けない地域」だったという。干ばつも進み、水がなくても育つケシに頼るようになり、麻薬産業だけで生きる若者も増えていった。
 「その中で、中村さんは灌漑事業がいかに重要かを、村長、市民、時には反政府勢力を1人ずつ説得し、進めていった。他の人にはまねできないこと」と言う。
 先日は国連難民高等弁務官だった緒方貞子さんが亡くなった。「アフガニスタンをいかに良くすべきか考えていた2人を同時期に失った。大きな損失だ」
 中村さんの著書「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る」の聞き手を務めたノンフィクション作家の澤地久枝さんは「足元から震えがのぼってきます。東京から、できるだけのサポートをしたいと思ってきましたが何と残念なことでしょう。私自身の気持ちの整理がつかず、言葉もないというのはこのことです。でも、中村先生が何より残念でいらっしゃるでしょう」とコメントを寄せた。
https://digital.asahi.com/articles/ASMD456YQMD4TIPE01V.html?iref=comtop_8_02



吉永小百合さん「本当に残念で、悔しい」中村医師を悼む(2019/12/4朝日新聞)
・・・吉永小百合さん「自分たちができることを」
 ペシャワール会の中村哲医師のアフガニスタンでの活動に共感し、現地の様子を記録したDVDで朗読を担当した俳優の吉永小百合さんが、中村医師の死去を受けて、朝日新聞の取材に対し語った。
 中村さんのアフガンでのプロジェクトを応援してきました。どうしてこんなことになったのかという思いです。世界を幸せにしようと思って頑張っていらっしゃる方が、こんな形で命を落とされたことは、本当に残念で、悔しい思いです。私たちは、中村さんの死をしっかりと受け止めて、自分たちができることをやっていかなければならないと改めて思いました。
「医師でありながら医者以上の活動していた」
 アフガニスタンなどで人道支援をしている国際NGO「JEN」(東京都新宿区)の木山啓子事務局長は4日、「あまりにショック」と話した。「世界にとってあまりに大きな損失です」
 木山さんはアフガニスタンやパキスタンなどで、紛争や災害の被害に遭った人々の支援をしており、これまでに在日アフガニスタン大使館で開かれた集いなどで中村さんと会う機会があったという。現地の人々の健康を考えるなら、診察だけではなく、穀物の栽培や灌漑(かんがい)など生活の基盤を支えることが必要で、持続可能な解決策を探ることが大切だと言われた。「支援のあり方を一方的に教えてもらった。私は中村さんのファンのようなもの」と振り返る。
 今年10月に中村さんがアフガニスタンから名誉市民権を授与されると、JENのアフガニスタンスタッフも自分のことのように喜んでいたという。「中村さんは医師でありながら医者以上の活動をしていた。素晴らしい人をこんな形で失うなんて、残念でなりません」
「現地の人が自立して暮らせるよう活動してきた人が…」
 10年以上前にペシャワール会の会員になった秋田県大館市の元高校教員山木敏子さん(72)はテレビのニュースで銃撃事件を知った。「現地の人が自立して暮らせるように活動してきた人が殺されるなんて、ショックとしか言いようがない」と肩を落とした。
 活動に共鳴し、中村さんの活動を紹介するDVD「アフガニスタン 用水路が運ぶ恵みと平和」を地元で上映したり、著書を高校に贈ったりした。本人に会ったことはないが、毎年届く会報でアフガンでの活動を見守ってきた。「中村さんにこそノーベル平和賞をもらってほしかった」と悼んだ。
https://digital.asahi.com/articles/ASMD465CKMD4UTIL068.html?iref=comtop_photo



脱貧困へ井戸1600本整備 中村哲医師 死亡(2019/12/5東京新聞)
<評伝> 「武装勢力の怖さを感じたことはない。米軍とは距離を置いているから」。アフガニスタンで人道支援活動を長年続け、四日銃弾に倒れた福岡市のNGO「ペシャワール会」現地代表の医師、中村哲さん(73)。口癖のようにそう繰り返していたのは、アフガンの大地に根差し、市民の貧困脱却に貢献してきた自負があったからだ。
 中村さんは福岡県出身。福岡高を経て九州大医学部で学んだ。登山が趣味で一九七〇年代にはパキスタンの七千メートル級高峰の登山隊に医師として同行。八四年に北西部ペシャワルでハンセン病患者の医療活動に携わったのが長いアフガン支援の始まりとなった。アフガン内戦の影響で多数の難民がペシャワルに流入。次第に関心はアフガンに向き、九一年に東部ナンガルハル州に診療所を開いた。
 武装勢力に若者が加わるのは「貧困が背景にある。アフガン和平には戦争ではなく、貧困解決が不可欠だ」との信念に基づき、支援の内容は医療から干ばつや貧困対策に徐々に移行。二〇〇〇年にアフガンが大干ばつに襲われた後、水不足や農地整備のため、日本人の若者ボランティアを募り井戸や用水路の建設を始めた。
 若者らは低賃金をものともせず、合宿しながら活動。現地の服装、質素な現地料理、イスラム教を尊重した生活習慣を貫き、地域に溶け込む努力を続けた。「最初の半年は言葉もシャベルの使い方も分からず使い物にならない」。言葉は厳しいが、地元に密着し市民らを優しく見守る中村さんの秘めた愛情に賛同する若者は多かった。
 こんなエピソードがある。米軍が突然、診療所を数台の装甲車とともに訪れ、薬の提供を申し出た際に拒絶したのだ。米軍と距離を置くためだった。「米国に近いと思われたら、ここでは誰も信用してくれない」。だからこそ、地元住民に信頼され、大切な土地の開拓を許されてきた。
 だが、〇八年八月に静岡県出身の伊藤和也さん=当時(31)=が武装勢力の凶弾に倒れる。「私を含め情勢に対する認識が甘かった。まさかこんな目に遭うとは考えていなかった」と無念さをにじませた中村さん。以後は若者らの派遣を厳しく制限する一方、本人だけは陣頭指揮を続けてきた。
 〇三年に「アジアのノーベル賞」と呼ばれるマグサイサイ賞を受賞。一六年秋には「旭日双光章」を受章した。一八年二月にアフガン政府から勲章を授けられ、今年十月には市民証(名誉市民権)も授与された。
 これまでに掘った井戸は千六百本に上る。用水路を引いた大地は黄土色から緑一色に変わった。「裏切られても裏切り返さない誠実さこそが、人々の心に触れる」。自著につづった思いは通じなかったのか。中村さんの無念さを思うと心が痛い。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/201912/CK2019120502000163.html



桜を見る会 車いすの横沢氏、舩後氏反発 首相「名簿廃棄に障害者職員関与」(2019/12/5東京新聞)
 車いすを利用する国民民主党の横沢高徳参院議員が四日の参院本会議で、安倍晋三首相が「桜を見る会」の招待者名簿を廃棄した経緯に、障害者雇用の職員が関わっていたと明かした発言について「激しい違和感を覚えた。障害者が関わったから仕方ないと国民に思わせたかったのか」と批判した。
 招待者名簿は、共産党議員が内閣府に招待者の資料を請求した五月九日、シュレッダーで廃棄された。証拠隠滅の疑いを追及する野党に対し、首相は二日の参院本会議で、四月二十二日にシュレッダーを利用予約し、廃棄が五月九日となった経緯に触れ「担当である障害者雇用の短時間勤務職員の勤務時間等との調整を行った結果」と説明した。
 横沢氏は四日の本会議で「『短時間勤務職員』と言えば通じるのに、なぜ『障害者雇用の』と答弁したのか」と疑問視した。本会議後には記者団に「一国のトップが、障害がある人とない人を隔てるような発言をすることに疑問を感じる」と話した。
 横沢氏はモトクロスの選手だった一九九七年、練習中のけがで脊髄を損傷。車いすでの生活となった。四日は、参院職員に車いすを押され、場内のスロープを使って登壇した。
 首相の発言に対し、筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者で、重度障害者の舩後(ふなご)靖彦参院議員=れいわ新選組=も四日、コメントを発表。「担当職員の属性は、資料破棄の根本問題とは関係ない。障害者雇用だったことが破棄に時間がかかった理由のように語られるのは不適切だ」と指摘した。・・・
https://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201912/CK2019120502000158.html



中村哲さん 平和への志砕かれ 「あまりに突然…」妻悲痛(2019/12/5東京新聞)
 アフガニスタン復興に懸けた信念は突然の凶弾に打ち砕かれた。「用水路を造り、農地を増やせば、平和が訪れる」。現地で人道支援活動を続ける「ペシャワール会」の医師中村哲さん(73)が四日、武装した男らに襲われ死亡した。「こんな日が来ないことだけを…」との不安は現実に。「信じたくない」「無念」。失われた存在の大きさに悲しみが広がった。
 「こんなことがないようにと、いつも無事を祈っていました」。中村さんの妻尚子さん(66)は四日、福岡県大牟田市の自宅前で取材に応じ「あまりに突然で悲しく、残念でなりません」と涙を拭いながら語った。
 尚子さんや親族によると、帰国は年に四回ほど。最近では十一月に約二週間、自宅で孫たちと遊ぶなどして過ごした。同二十九日にアフガニスタンに出発する際には、尚子さんは普段通り「行ってらっしゃい」と送りだしたという。
 ペシャワール会から事件の連絡が入った当初は命に別条ないと聞き「まずはほっとした」ものの、四日夕になって事態の急変を知らされた。「どういう地域で活動しているのかは分かっているし、いつも家にいてほしいとは思っていた。ただ本人は活動に懸けているので強く反対するわけにいかず、見守っていました」。言葉を振り絞った。
 中村さんのいとこの玉井史太郎(ふみたろう)さん(82)=北九州市若松区=は「彼の仕事は『人間らしい仕事』だった。彼を貫いていたのは困っている人に手を差し伸べるという素朴な正義感」としのんだ。中村さんは同区で幼い頃を過ごし、今年八月に区内で開かれた講演会でも平和の大切さを訴えた。
 玉井さんの父で芥川賞作家の火野葦平(あしへい)は、中村さんの伯父に当たり、日中戦争時は中国戦線で従軍しながら「麦と兵隊」などを執筆した。玉井さんは「テツは『葦平と一緒で、危険なとこで活動しているのが同じ』と笑っていた。自分のいとこの活躍は誇り。テツがアフガンでやってきたことは、これからも生きていくと思う」と力を込めた。
◆ペシャワール会 遺志を継ぐ覚悟
 ペシャワール会の福元満治(みつじ)広報担当理事(71)らは四日、福岡市内の事務局で記者会見し「無念だ」と涙をこらえながら話した。事務局には一時、命に別条はないとの情報ももたらされ「とにかく生きて」と願ったが、かなわなかった。
 治安が悪く、安全には細心の注意を払っていたという。銃器で武装した警備要員を常に数人配置し、車で移動する際は前後を警護車両で固め、経路も毎回変更していた。襲撃者については見当もつかないとした上で「あり得ないことだ」と不条理な暴力を批判した。
 現地の長老からは「この地に招いてくれた神に感謝する」と最大限の賛辞を贈られていた中村さん。地元での評価も高かった。「あと二十年はやる」と意気込んでいたという。
 福元氏は、これまで取り組んだ農業用水の整備などは治安の安定につながると指摘する。襲撃を受けても「事業が中止になることはない」と力を込めた。ただ、事業の拡大は難しくなる見込みで、活動が岐路に立たされる可能性があるとの認識を示した。

 2008年から約半年間、ペシャワール会職員としてアフガニスタン東部ジャララバードの事務所に赴任し、中村さんと一緒に活動した経験のある本紙の山中正義記者(35)=現熱海通信局=が当時を振り返った。
 「中村先生」を初めて知ったのは大学生の頃。国際協力に漠然と興味があり、東京都内の大学での講演を聞きに行った。パキスタンやアフガンの現地語を独学で習得し、現地の文化を尊重して支援活動に取り組む姿勢に感銘を受け、一緒に働きたいと思った。
 大学卒業後、会の拠点病院があったパキスタン・ペシャワルへ留学。病院を訪れ、日本人スタッフを介して中村先生に働きたい旨を伝えてもらった。現地は当時、自爆攻撃が多発するなど治安が悪化。会は日本人職員の採用を停止していたが、中村先生から「今すぐ来られるなら来てください。来られないなら今後は採用しません」と伝言が届いた。迷いはなかった。
 赴任後は用水路建設に必要な資材の調達など主に事務を担当した。中村先生は現地で「ドクター・サーハブ(お医者さん)」と親しまれ、長年培ってきた信頼が活動の安全を支えていると、身に染みて感じた。
 中村先生からは赴任したばかりのころ、「現地スタッフの意見をきちんと聞くように」と助言を受けた。「支援する側」として自分の指標を押しつけるのではなく、現地の人たちと対等に、ともに考えて行動する姿勢を教わった。
 中村先生の身に起きたことはまだ信じられないし、そんな日が来るとも思っていなかった。最後に会ったのは、二〇一五年九月に中村先生が一時帰国した際。現地の強い日差しの下で働いて日焼けした顔が、以前と変わらず輝いていたのを覚えている。
 「治安を良くするのは武力ではない」という先生の志を、絶やしてはいけない。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201912/CK2019120502000136.html



五感で楽しむ演劇 障害ある子らに向け 調布のNPOが上演(2019/12/4東京新聞)
 「多感覚演劇」を知っていますか−。主に障害のある子どもなど限られた観客に対し、役者が小道具を使ったり、そばに近づいたりしながら、五感を刺激するパフォーマンスを展開する。NPO法人「シアタープランニングネットワーク」(東京都調布市)が今月、都内二カ所で計八回上演する。 
 「じっとしていられなくても、一緒に踊っても大丈夫。障害や病気の子と家族らが、車いすのままでも鑑賞できますよ」
 NPO法人代表の中山夏織さん(57)=同市=は心配を取り除くように話す。
 英国で三十五年以上、障害児らに向けた作品を上演している劇団「オイリーカート」の理念と手法を学び、三年前に導入した。
 今回上演するのは「アラビアの空のかなた〜物語が生まれる」。砂漠を舞台に、役者がラクダに会いに行ったり、オアシスへ向かったりする構成で、観客らと宝物に触れる場面もある。プロの俳優やバイオリニストら音楽家の計八人が出演し、生演奏の中、物語が進んでいく。
 中山さんは「繰り返し見に来てくれる子たちの反応が毎回変わって、楽しんでくれている。どんな子でも鑑賞できる、こうした演劇があることをもっと浸透させたい」と語る。
 十四、十五日はシャロームみなみ風(新宿区弁天町)、二十二、二十三日はコミュニティカフェななつのこ(世田谷区南烏山)で、各日午前と午後の二回上演。各回六家族程度で、すでに満員の回もある。
 参加費は子ども・大人各一人の一組二千円。同伴家族は大人千円、子ども五百円。詳細は主催団体ホームページ(NPO法人名で検索)で。申し込みが必要。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/metropolitan/list/201912/CK2019120402000163.html



【茨城】戦争 世代超え語り継ぐ ペリリュー島に記念碑建立へ 来年4月(2019/12/5東京新聞)
 太平洋戦争中に激戦地となったパラオ・ペリリュー島に二〇一五年、当時の天皇陛下が初訪問されたことを記念し、遺骨収集などをしている「水戸二連隊ペリリュー島慰霊会」が来年四月、現地に碑の建立を計画している。ペリリュー島から生還し「最後の生き証人」と呼ばれた茨城町の永井敬司さんが今年十一月に亡くなっており、関係者は記念碑を通じ「世代を超え、戦争を語り継いでいく」と話す。 
 慰霊会によると、記念碑は一九八五年に日本政府がペリリュー島の南端に建立した「西太平洋戦没者の碑」の向かって左側に設置する。二〇一五年四月に当時の天皇、皇后両陛下(現上皇ご夫妻)が初めて島を訪問し、五年の節目となる二〇年四月九日に除幕式を開く予定にしている。
 記念碑は、土台を入れて約二・七メートルの大きさ。上皇さまがペリリュー島で西太平洋戦没者の碑に供花したことに続き、同じく多くの戦死者が出たアンガウル島に向かって拝礼した際の情景を詠んだ歌や、上皇后さまの歌なども刻むという。・・・
 ペリリュー島では一九四四年九月に米軍が上陸。守備していた水戸歩兵第二連隊を含む旧日本軍約一万一千人のほとんどが戦死した。生き残った兵の一部は終戦を知らずに洞窟で潜伏し、三十四人が四七年四月に武装解除して生還した。
 三十四人のうち、最後まで存命だった永井さんは今年十一月四日、九十八歳で大腸がんで亡くなった。永井さんは長年、二度と戦争を起こさせないという願いで体験談を講演してきた。本紙の取材にも「戦争を放棄した世界に冠たる憲法を守り、平和であり続けることが一番だ」などと語り、平和への思いは強かった。
 慰霊会の影山幸雄事務局長(74)は「永井さんが亡くなったから終わりではない。世代を超えて戦争を語り継いでいかないといけないと思っている。記念碑の建立が一つのきっかけになれば」と話した。・・・

 上皇さまの歌
 戦ひにあまたの人の失せしとふ島緑にて海に横たふ
 上皇后さまの歌
 逝きし人の御霊(みたま)かと見つむパラオなる海上を飛ぶ  白きアジサシ
https://www.tokyo-np.co.jp/article/ibaraki/list/201912/CK2019120502000131.html



<金口木舌>タクシー運転手が運んだものは・・・(2019/12/5琉球新報)
 香港のデモを見ていて、ある映画を思い出した。一昨年公開され話題となった韓国映画「タクシー運転手」だ。1980年の光州事件で、市民や若者らが民主化を求めて立ち上がる姿が香港と重なる
▼軍が市民に銃を向け、次々と若者が倒れる。地元メディアは「市民の暴動」などと当局の発表を流すばかり。映画は、弾圧の実態を世界に発信したドイツ人記者と彼をタクシーで運んだ運転手の実話だ
▼政府による報道統制はすさまじかった。光州に入る道は軍が規制した。その中をドイツ人記者は身分を隠して潜入し、事態を映像に収めた
▼沖縄も日本復帰前の米占領下では取材の自由が脅かされていた。写真家の嬉野京子さんは60年代、米軍車両の少女轢殺(れきさつ)現場を隠れて撮影した。伊江島では米軍に拘束されながらも、島民の助けを得て脱出、世界に沖縄の状況を伝えた
▼取材統制は過去の話だろうか。2005年、イラク戦争から帰還する米海兵隊の取材で、米軍は沖縄2紙を排除し「公平でバランスの取れた」とするメディアだけを選別して取材させた
▼今も状況は変わらない。米空軍は先月、空中給油訓練を沖縄2紙を除くメディアに限定公開した。政府は五輪開催にかこつけて基地周辺のドローン撮影を規制した。われわれの目や耳をふさごうとする動きが加速する。その先に待つのは暗く、息苦しい社会だろう。
https://ryukyushimpo.jp/column/entry-1037016.html



「平和賞ふさわしい人」 中村医師死亡 県内から惜しむ声(2019/12/5琉球新報)
 「沖縄の抱える矛盾、これは凝縮された日本の矛盾でもありますが、米軍に協力する姿勢を見せないと生き延びられないという実情は、実はかの地でも同じです」。中村哲さんは第1回沖縄平和賞の授賞式でこうあいさつした。平和賞で贈られた浄財の一部をアフガニスタン東部ダラエピーチの診療所建設費に充て「オキナワ・ピース・クリニック」と名付けた中村さんの訃報に県内からも惜しむ声が相次いだ。
 友人の一人によると、大学時代の中村さんは講義などの議論で率先して発言するタイプではなかった。ただ、中村さんが発言すると結果的にその場がまとまるような存在感、カリスマ性があった。また、大学受験では試験が簡単すぎて受験勉強をしなかったために浪人したといい、豪快な一面もあったという。
 中村さんは講演などで沖縄をたびたび訪れ、多くの県民に影響を与えた。沖縄県女性の翼の会は「人間を尊重し、命を大切にするペシャワール会の活動は女性の翼の会の精神に通じる」と2017年に中村さんを招いた。鈴木啓子会長は「講演の感想を書いてくれた子どもに返事を書くと住所を聞いていた。とても謙虚で素晴らしい人だった。ノーベル平和賞にもふさわしかった」と悲しんだ。
 沖縄キリスト教学院大学の沖縄キリスト教平和総合研究所は今年9月、設立10周年記念特別講演会で中村さんを招いていた。内間清晴所長は「医療活動をしながら、自ら学び井戸を引くなど医師の枠を超えていた。『寄り添う』を超え、現地の人々と共に生きていた」と残念がった。
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1037052.html



(社説)中東へ自衛隊 国会素通りは許されぬ(2019/12/4朝日新聞)
 緊張が高まり、不測の事態も想定される中東に自衛隊を派遣することの重みを、安倍政権はどう考えているのか。
 政府・与党だけの手続きで拙速に決めることは許されない。国会の場で、派遣の是非から徹底的に議論すべきだ。
 中東海域への自衛隊派遣について、政府が年内の閣議決定をめざしている。早ければ年明けにも、護衛艦1隻を向かわせるほか、海賊対処のためソマリア沖で活動中のP3C哨戒機1機の任務を切り替える。
 米国のトランプ政権が核合意から一方的に離脱し、米国とイランの対立は深まるばかりだ。政府は米国が主導する「有志連合」への参加を見送り、独自派遣を強調することで、イランを刺激しまいとしている。
 だが、有志連合とは緊密に情報共有を進める方針であり、状況次第で、米国に加担したと見られても仕方あるまい。
 朝日新聞の社説は、関係国の対話と外交努力によって緊張緩和を図るべきだと、繰り返し主張してきた。米国の同盟国であり、イランとも友好関係を保つ日本が、積極的に仲介役を果たすことも求めてきた。こうした取り組みに逆行しかねない自衛隊派遣には賛同できない。
 法的根拠にも重大な疑義がある。日本関係の船舶を護衛するわけではなく、情報収集態勢の強化が目的として、防衛省設置法の「調査・研究」に基づく派遣だという。
 国会承認がいらないだけでなく、防衛相の判断のみで実施可能だ。自衛隊の活動へのチェックを骨抜きにする拡大解釈というほかない。
 政府が今回、閣議決定という手続きをとることにしたのは、公明党などにある懸念に応え、政府・与党全体の意思統一を図る狙いがあるのだろう。しかし、先に派遣ありきの議論で、数々の問題が解消されるとは思えない。
 政府は現地の情勢について、船舶の護衛がただちに必要な状況ではないと説明している。それなのに、派遣の決定を急ぐのはなぜか。活動を始めた有志連合と足並みをそろえ、米国への協力姿勢をアピールする狙いがあると見ざるをえない。
 だが、いったん派遣すれば、撤収の判断は難しくなる。立ち止まる機会は、今しかない。
 この節目に、国会論議を素通りすることは許されない。9日に会期末を迎える今国会では、いまだ中東派遣を巡る突っ込んだ質疑が行われていない。
 だとすれば、国会の会期を延長し、日本が採るべき選択肢を議論すべきではないか。そのことこそ、政治に課せられた国民への責任である。
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14281400.html?iref=comtop_shasetsu_01


posted by オダック at 21:33| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: