2020年03月21日

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原発めぐり「殺すぞ」憎み合った37年 夢が覚めた芦浜(2020/3/17朝日新聞)
 三重県南部の熊野灘に面する芦浜は、夏になるとウミガメが産卵にやって来る静かな入り江だ。1963年、この地を37年にわたって揺るがすことになる中部電力による芦浜原子力発電所の建設計画が浮上した。
 芦浜周辺に漁業権を持つ南島町(現在は南伊勢町)古和浦地区の漁師らを中心とする反対運動で、計画は67年にいったん阻止された。だが、84年に当時の田川亮三知事が原発関連予算を県議会に提案。85年に県議会が「芦浜原発立地調査推進決議」を採決し、再び南島町を中心に反対運動が広がった。
 93年4月30日、役員選挙が開かれた古和浦漁協に、緊張した空気が張り詰めていた。それまで強硬に反対の立場を貫いてきた古和浦漁協だったが、この選挙で原発推進派が執行部メンバーの多数を占めた。
 そして94年2月、30年間堅持した原発反対決議を撤回した。「古和浦の逆転」と呼ばれる出来事だった。
小さな漁村、ぐちゃぐちゃ
 小倉紀子さん(78)は、漁協の理事だった夫の正巳さん(故人)とともに、反原発運動に身を置いた。狭い道路に500軒ほどの民家が並び、肩を寄せ合う古和浦を「みんな親戚みたいな場所」と言う。だが、推進派が台頭してくるにつれて、そんな地域はぐちゃぐちゃになった。
 「中電や国と闘っているはずなのに。それがいつの間にか、住民同士で憎み合うようになった」
 無言電話が夜中まで鳴り続けた。頼んでいない宅配便も届いた。小さい物は痔(じ)の薬から大きい物はダブルベッドまで、毎日のようにだ。差出人の名前が書かれていない手紙には、「殺すぞ」「バラすぞ」といった雑言が並んだ。
 漁協の理事選の日が近づくと、推進派の組合員が毎晩自宅に訪れ、正巳さんが立候補しないように頼みに来た。「小倉正巳を説得した組合員に3千万円」。そんな話も広まった。
〈芦浜原発計画〉 1963年、中部電力が三重県での原発建設計画を公表。翌年に旧南島町(現南伊勢町)と旧紀勢町(現大紀町)にまたがる芦浜が候補地になった。67年に田中覚知事が原発問題に終止符を宣言したが、84年に県が原発関連予算を計上したことで反対運動が再燃。2000年2月に北川正恭知事が白紙撤回を表明し、中電は計画を断念した。
 「小さい漁村だから推進派の住民が死ぬと、それが親戚でも反対派は喜ぶ。逆もそう。人の不幸を喜ぶ場所に中電がしてしまったんだ」。小倉さんはただ悲しむしかなかった。
計画推進 原発マネーで町長辞職
 一方、芦浜周辺の漁業権を古和浦漁協と分け合う紀勢町(現在は大紀町)の錦漁協は、原発建設計画が浮上した当初から、推進の動きを見せた。そうした中、カネをめぐる問題が表面化した。1978年に当時の紀勢町長が、中部電力による推進活動のカネにからんで逮捕される原発汚職事件が起き、この町長は辞職した。
 芦浜原発計画が再燃した直後の86年、町長選では谷口友見さん(80)が初当選した。当初、町長としての立場は明らかにしていなかったが、徐々に推進に傾いていった。
 南島町と同様、紀勢町も漁師町。住民の多くは漁業で生計を立てていた。町長になると、人口減少と少子高齢化社会を見越した準備が必要だと考えた。そのためにも、原発誘致で町にもたらされるお金や雇用に期待を寄せていた。
 谷口さんは当時を振り返って言う。「苦労するだろうが、少しでも町を良くできるのは、原発であり、お金だった」
 99年には紀勢町の女性たちが立ち上がり、推進団体「進婦会」を発足させた。谷口都さん(89)が代表世話人を務めた。
 難病だった長男は36歳で亡くなった。町内に総合病院はなく、長男は亡くなる前、車で1時間以上かかる三重県松阪市内の病院に通っていた。町内には車を持つ人も限られていて、病気はまさに命に関わる問題だった。
 静岡県の中電浜岡原発を視察した際には、地元の総合病院も訪れた。「原発のお金でこんな立派な病院ができるんだ」。期待は膨らむ一方だった。
 進婦会のメンバーは、原発やエネルギーの勉強会を開いたり、原発が立地する地域へ視察に出かけたりした。原発の外壁は頑丈に囲われていることを、実際に自分の目で見て確認した。担当者から説明も受けた。
 「どこを見ても安全だと思った」。夫とも「これからの時代は原発がなきゃいかんな」と話していた。
 当時、原発推進に迷いはなかった。「漁場はいつまで続くか分からないし、若者の働く場所もない。子どもたちのため、町のための選択だった」
2千人が体を張って阻止
 1994年12月15日、ふだんは静かな漁師町が異様な雰囲気に包まれていた。芦浜原発の立地の前提となる海洋調査の受け入れをめぐり、南島町の古和浦漁協でこの日、臨時総会が予定されていた。中電は、すでに海洋調査補償金の前払いとして2億円を漁協側に渡していた。総会に出席する組合員が入れないようにするため、反対派の住民たちが早朝、漁協の建物を取り囲むように座り込んだ。
 夜が明ける前の午前6時ごろのことだ。「ザクッ、ザクッ、ザクッ」。周りが暗い中で響いたのは警察官らの足音だった。坂の上から列をなし、足並みをそろえて近づいてくる。
 漁協を取り囲む住民らは2千人ほどになっていた。前列に女性たち、後列に若者たちが座り込んだ。
 「私らが何を悪いことしたんや」「もうだまされへん」「総会が開かれたらおしまいだ」――。住民らは叫んだ。目には涙を浮かべる人もいた。
 腕を固く組んだ住民たちが一人また一人と、警察官たちに引き抜かれていく。「とにかく建物の中に入れたら終わりだ」。住民らは必死に抵抗した。
 最長18時間の座り込みの末、臨時総会が流会になったことが伝えられると、大きな拍手が起こった。
 「南島町の反対派による実力阻止は計画が浮上して以来、2度目でした」。三重県伊勢市から座り込みに加わっていた柴原洋一さん(66)は当時を振り返る。
 1度目は「長島事件」と呼ばれる出来事だ。66年9月、視察のために訪れた中曽根康弘氏(故人)ら超党派の国会議員団が乗った船を、漁師たちが漁船で取り囲んだ。このとき反対派の漁師30人が逮捕され、25人が起訴された。
 柴原さんは「体を張らないと原発は止められない。きちんとした原理や理論を述べても無駄。それが僕が見たこの国の民主主義の現実だった」と憤る。
知事の決断、白紙撤回へ
 そして、ついにあの日がやって来る。
 「白紙に戻すべきであると考えます」。2000年2月22日、三重県の北川正恭知事が県議会本会議で、中部電力芦浜原発建設計画をめぐる態度を明らかにした。このとき180席ある本会議場の傍聴席は三重県南島、紀勢両町の町議や住民らで埋め尽くされていた。
 「地元住民は長年にわたって苦しみ、日常生活にも大きな影響を受けていることを強く感じました」「37年間もの長きにわたり、このような状態が続いてきたことは、県にも責任の一端があることは事実」――。発言の途中、一瞬声を詰まらせる場面もあった。
 県議会本会議の終了後、北川知事は別室で南島、紀勢両町長と面談し、自らの見解について説明した。推進の立場をとって紀勢町の谷口友見町長はこのとき、こみ上げた怒りを抑えきれなかった。面談は15分の予定が、35分まで延びた。
 「だまされた」。そんな感覚と同時に、「夢が覚めた」とも思った。
 この日の午後、中電の太田宏次社長が記者会見を開いた。そして、原発計画の断念を表明。37年間の長い闘争に幕が下りた。・・・
芦浜原発計画をめぐる経緯
 1963年11月 三重県と中部電力が熊野灘沿岸3地点での原発建設計画を公表
 64年7月 県と中部電が3地点から芦浜を選定。翌年に中部電が用地買収の終了を発表
 67年9月 田中覚知事(当時)が計画に終止符を打つと表明
 84年2月 県が原発関連予算を計上。反対運動が再燃
 96年5月 南島町の芦浜原発阻止闘争本部が約81万人の反対署名を集め、県に提出
 2000年2月 北川正恭知事(当時)が計画の白紙撤回を求める考えを表明。中部電が計画を断念
https://digital.asahi.com/articles/ASN3F558BN3FONFB00Q.html?iref=comtop_list_pol_n06



承認撤回取り消し訴訟、沖縄県が敗訴へ 辺野古埋め立て 最高裁が26日に判決(2020/3/17琉球新報)
 米軍普天間飛行場の移設に伴う名護市辺野古の新基地建設を巡り、沖縄県による埋め立て承認撤回を取り消した国土交通省の決定(裁決)は違法だとして、県が裁決の取り消しを求めた訴訟で、最高裁第1小法廷(深山卓也裁判長)は16日、上告審判決を26日に言い渡すことを決めた。結論を変更する際に必要な弁論が開かれないため、県敗訴とした福岡高裁那覇支部判決が確定する見通し。
 県は2018年8月、埋め立て予定海域に軟弱地盤が見つかったことなどを根拠に承認を撤回。これに対し沖縄防衛局が行政不服審査法に基づく審査請求を申し立て、19年4月に当時の石井啓一国交相が撤回を取り消す裁決をした。
 県は、防衛局の審査請求は行政不服審査制度の乱用で、同じ国側の国交省による裁決は違法だと反発。総務省の第三者機関「国地方係争処理委員会」に審査を申し出たが、却下され、同年7月に提訴した。高裁那覇支部は同年10月、国交省の裁決は地方自治法上の「国の関与」に当たらず、訴訟の対象にならないとして県の訴えを退けた。・・・
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1091325.html



(声)若い世代 謝る基準、少し高めてみては 日本語学校生 柳星鉉(大阪府 22)(2020/3/17朝日新聞)
 来日して1年半になる韓国からの留学生です。生活する中で、日本人は謝りすぎると感じました。アルバイトを始めた頃、レジの人がお客さんに頭を何度も下げているのを見て、大きな間違いをしたのかなと思いました。後で事情を聴くと、お客さんが探していた商品が売り切れだっただけ。店員さんが堂々とした態度で働く韓国ではありえないことです。なぜそんなことで謝るのか?
 日本人はマナーがいいですが、お客さんという立場になると、まるで王様のような態度をとる人がいます。また、謝れば、お客さんを納得させるより簡単に状況を切り抜けられるからだと思います。
 頭を下げることは自分のプライドを傷つけることにつながります。だからといって、「謝るべきでない」というのではありません。謝る基準を少し高めてみてはどうでしょう。
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14404983.html?iref=mor_articlelink11



(声)平和のバトン 撲殺された愛犬、どんな思い 無職 丸山美砂子(岡山県 82)(2020/3/17朝日新聞)
 84歳の方の寄稿「目の前で撲殺された愛犬エス」(2月15日)に涙があふれました。人間が起こした戦争に、ペットや家畜も信じた主(あるじ)に頼ることもできず犠牲となってゆく。撲殺された愛犬の思いはどうだったのでしょう。
 1度目の兵役を終え、1940(昭和15)年からの警視庁在職中、43年12月に2度目の召集をされた父。自分の意思を表すこともあらがうことも出来ない時代。村人の万歳に送られながらビルマ(現ミャンマー)に出征しました。最後は食料や武器の補給もないまま、ただただ故郷に帰り着きたい一念で一歩一歩ジャングルを歩いたであろう日本兵。父もその一人だったと思います。
 父が2度目の召集時、既に日本の戦況は悪く、末期には本土決戦も想定され、「玉砕」という言葉が伝わるようになった太平洋戦争。どうか自由を得た今の人たちには過ちを繰り返さないでいただきたいです。終戦の45年5月、父が戦死と告げられ、届いた白木の箱の中には石ころが1個入っていました。
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14404979.html?iref=mor_articlelink05



【社説】関電の金品受領 原発の闇はまだ深い(2020/3/17東京新聞)
 「関西電力はモンスターと言われるような人物を生み出した」−。関電の金品受領問題を調査した第三者委員会は、そう結論づけた。「怪物」の温床になった原発の深い闇。これで解消できるのか。
 極めて異様な事件である。
 関西電力高浜原発が立地する福井県高浜町で、関電のトップや原発立地関係者らが、町の実力者であった元助役(故人)側から長年にわたり、金の小判や現金入りの菓子袋など、多額の金品を受け取っていた。
 元助役と関連の深い地元建設会社には、関電から原発関連工事が次々発注されており、建設会社からは、元助役に多額の資金が渡っていた。つまり、関電から出た「原発マネー」が、関電トップに還流していた疑いが強い。原資は、利用者が支払う電気料金だ。
 関電はおととしすでに、金沢国税局の指摘を受けて社内調査を実施、金品問題を把握していたが、取締役会に諮らず、公表もしなかった。
 第三者委員会による今回の調査では、元助役側からの受領者は、七十五人、総額三億六千万円と社内調査の結果より多くなり、それらの金品が原発関連工事発注の「見返り」であると明確に結論づけた。
 調査報告書によると、関電と元助役とのいびつな関係は、高浜原発3、4号機の誘致に当たり、推進役として元助役の力を借りたことから始まった。3・11後、原発の安全対策工事の増加が見込まれる中で、受領者数や金額が大きく膨らんでいったという。
・・・ 不透明な金の流れは、原発立地や3・11後の対策工事にどのような影響を与えたか。本当に安全なのか。そもそも金でしか解決しようのないものを、地方に無理やり押しつけようとしたことが、闇を生んだのではないか−。
 「立地の闇」にさらなる光を当てない限り、闇に巣くう「怪物」たちは、よみがえる。・・・ 
https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2020031702000149.html



【社説】植松被告に死刑 「なぜ犯行」今なお残る(2020/3/17東京新聞)
 知的障害者施設「津久井やまゆり園」で四十五人を殺傷した植松聖被告に死刑判決が出た。「大麻乱用で心神喪失だった」との弁護側の主張は退けられた。それでも「なぜ」の問いが今なお残る。
 裁判での争点は、植松被告に犯行当時、刑事責任能力はあったかどうか。その程度はどうであったかに絞られていた。
 犯行時までの一年間に週に四、五回も大麻を使用していたからである。多いときは一日で数回、大麻を吸っており、その乱用による大麻精神病とも疑われた。
 大麻の乱用で「人が変わった状態になった」「長期間、常用したことで病的で異常な思考に陥った」(弁護側)のか、「大麻の影響はあっても小さい」(検察側)のか。心神喪失が認められるかが有罪無罪の決め手だった。
 横浜地裁の判決ではまず被告が「重度障害者は不幸を生む不要な存在で安楽死させるべきだ」と考え、「その先駆者になる」ことが犯行動機だったとした。その上で、入所者十九人を刃物で殺害する大事件が計画性をもって行われたことを重視した。
 例えば職員の少ない時間帯を狙い、職員を結束バンドで拘束。「重度障害者を選別して殺害行為に及んだ」ことなどだ。刑事責任能力を認め、死刑判断をした。
 計十六日間の審理でも「意思疎通のできない障害者は不幸を生む」などと説明し、差別そのものの主張を繰り返した。「重度障害者を育てるのは間違い」「事件は社会に役立つ」「人権で守られるべきではない」と−。
 その意思は強固と思えるほどだった。ゆがんだ差別意識はどうして生まれたのか。だが裁判では深掘りされなかった。
 教育者の家庭に生まれ、自らも教師になろうとした。大学では教育実習を受けたものの、危険ドラッグに手を出すなど素行は乱れた。卒業後は運送会社を経て、「やまゆり園」の職員となった。
 決して強者でもないのに弱者の中から「不要な命」を選別し、大量殺人を犯す。あまりに飛躍・逸脱した犯行をどう説明したらいいのか。
 今も社会にはびこる差別や偏見とどう関係するのか。障害者も人間であり、その権利を尊重するのは、社会の共通した価値観ではなかったか。
 あるいは格差が進む日本社会では「人間は平等」「人権」という価値観も揺らぐのか。事件はいまだ不可解である。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2020031702000150.html



【群馬】ハンセン病元患者・藤田三四郎さん死去 戦後の壮絶な差別に耐え(2020/3/17東京新聞)
 草津町の国立ハンセン病療養所「栗生(くりう)楽泉園」で、計三十年以上にわたって入所者自治会長を務めた藤田三四郎さんが九十四歳で亡くなり、元患者からは惜しむ声が上がった。戦後の根深い差別を耐え忍び、自治会長としては皆に慕われた人生だった。
 「何人もの仲間が同時に亡くなったような思い。まじめで一生懸命な会長だった。自治会運営の相談相手がいなくなり、どうしたらいいのか」。副会長として藤田さんを支えた元患者、岸従一(よりいち)さん(80)は言葉を詰まらせた。
 茨城県生まれの藤田さんは十九歳でハンセン病と診断された。「首でも吊(つ)って死んじゃったほうがいいんじゃないかって、やったけどね、ベッドで。二、三回やったけど、死にきれなかったね」。藤田さんは入所者証言集でこう告白した。
 藤田さんは終戦間際、当時の厳しい差別の中で「患者護送中」と他の乗客に掲示された汽車に乗せられて楽泉園へ入所。その後はまきに使う重い炭を背負って急な谷を登る強制労働や、亡くなった患者たちを火葬する当番などをやらされ、苦難の日々を耐え続けた。
 記者が藤田さんに出会ったのは、二〇〇九年に藤田さんらが参加した入所者証言集が出版された際だ。その後も楽泉園に取材で通ううち、結婚した経験があっても差別のために子どもを持てなかった藤田さんが子ども好きと知った。
 一五年、子どもたちを自室に招き入れ、趣味の俳句を披露する様子を取材をする機会があった。「古里へ 夢の実現 セミ時雨」。この句は藤田さんが夏に故郷の茨城県を訪問した後に詠んだという。
 藤田さんは根深い差別のために病気が治っても簡単には故郷の地を踏めない心境を、俳句を通じて子どもたちに優しく教えた。「子どもたちと触れ合うと気持ちが明るくなり、楽しい」と笑みを浮かべた藤田さんが印象に残っている。
 そんな藤田さんも、差別の歴史を講演会などで振り返る際は厳しい表情を見せた。一六年に前橋市であった講演では、戦後に患者たちを裁判所ではなく強制隔離された療養所で裁いた「特別法廷」に触れた。
 藤田さんは「特別法廷は憲法(にある公開裁判の原則)に違反したと思っている。患者をきちんと人間として扱って裁判するべきだった。国(と裁判所)は人権を無視した」と手厳しく批判した。
 ただ、この講演では、来場者にこうも語り掛けた。「全ての人は偏見と差別の心を持っている。それでも、自分を愛するように他人を万分の一でもいいから愛してほしい」。壮絶な差別を耐えたからこそ達観し、生まれた言葉だった。 
https://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/list/202003/CK2020031702000160.html



【神奈川】相模原殺傷、被告に死刑判決 佐々木教授らに聞く「プロセス言及なく残念」(2020/3/17東京新聞)
 相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者ら四十五人を殺傷した罪などに問われた元施設職員植松聖被告(30)の判決公判があった十六日、横浜地裁にわずか十席の一般傍聴券を求め、千六百三人が訪れた。二カ月余に及んだ裁判は、それぞれの人たちに何を問いかけたのか。 
 三男(24)に広汎性発達障害がある静岡県立大学短期大学部社会福祉学科の佐々木隆志教授(63)は「車いす、認知症になれば人間扱いされない社会はおかしいということを啓蒙(けいもう)したいからここにいる」ときっぱりと語った。死刑判決に「予想された判決だが、司法の限界も感じる。責任能力の有無や程度が争点だったが、遺族やわれわれ障害者を持つ親は、なぜ犯行に至ったのかが知りたかった」と指摘。「植松被告が社会に抱いた不満、福祉の現場を体験して思ったことも十分には明らかになっていない。犯行という結果のみが捉えられ、プロセスにあまり言及がなかったのは残念」と続けた。
 「障害者の親にとって判決は通過点。植松被告のような考え方の人が存在するのは事実であり、裁判を契機に、命は等しいということをもっと広めていきたい」と結んだ。
 二〇一七年八月から植松被告に五十回接見した月刊「創」編集長の篠田博之さん(68)も姿を見せた。
 篠田さんによると、公判で初めて、障害者も含んだ謝罪があったという。「接見の時に謝りたいと言っていた。それまでの謝罪は障害者の家族に対してだった。本人は最初の主張にかたくなで、心境の変化があったかどうかは推測だが、事件後、いろんな人に会い、裁判で被害者の話を聞いている」と話し、「三月初めに接見した時、本人は控訴しないと言っていたが、これで終わらせてほしくない」と訴えた。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/list/202003/CK2020031702000126.html



石垣市長の不信任否決 石垣市議会(2020/3/17琉球新報)
 【石垣】石垣市議会(平良秀之議長)は16日の市議会3月定例会最終本会議で、野党側が提案した中山義隆市長の不信任決議案を賛成少数で否決した。中山市長への不信任決議案が出されたのは、就任直後の2010年6月以来2回目。市議会解散決議案も成立要件を満たさず否決された。
 いずれも野党側が動議で提案した。野党の新垣重雄氏は「長期政権となりつつある近年の市政運営は目に余るものがあり、これまでも市民から多くの苦情が寄せられている」と指摘。石垣市平得大俣への自衛隊配備計画の賛否を問う住民投票を実施せずに、市有地売却を提案したなどとする提案理由を説明した。
 不信任決議成立には3分の2以上の出席議員のうち4分の3以上の同意が要件となるが、16日の市議会(定数22)の出席議員21人のうち賛成は野党9人にとどまった。市議会解散決議案は野党側が2日に提案したもので、野党と一部与党の11人が賛成したが、出席議員のうち5分の4以上の同意は得られなかった。
 中山市長は取材に「指摘された点は真摯(しんし)に受け止めたい」と述べた。
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1091185.html



やまゆり園事件は「テロだ」 何も言わない国に弁護士は(2020/3/16朝日新聞)
 相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」での殺傷事件で、初公判を前に犠牲になった女性(当時19)の名を「美帆さん」と明かした母親がいた。その母親ら遺族の代理人弁護士を務めたのが滝本太郎弁護士(63)だった。
 滝本弁護士が受任したのは昨年11月。横浜地裁は申し出があった被害者について、特定事項を秘匿すると決定していた。美帆さんの遺族も、「姓名全てを法廷で明かすか、もしくは、記号を使った呼称を受け入れるか」の二択を迫られた。記号の呼称を受け入れることにどうしても納得がいかない母親と兄は、滝本弁護士に相談したのだった。
 滝本弁護士は「母親は単に名前で審理をしてもらいたいというだけではなかったんです」と明かす。
 公判前整理手続きを経て、裁判の争点は量刑、それも刑事責任能力の有無や程度に絞られていた。
 それを聞いた母親は「19人が生きていたことの実感がなければまともな裁判にならない。美帆さんという女性が生きていたことを社会が理解し考えてほしい」と、名前と写真の公開を決意したという。論告求刑公判の日に、滝本弁護士と連名で発した声明では「勇気が必要でした」と母親は振り返っている。
 そのような経緯もあり、滝本弁護士は「白々しい裁判にとどめてはいけない」との思いで公判に臨んだ。二度とこのような事件を起こしてはいけない、そのために得るべき教訓はなにか、被害者参加人の代理人を務める中で考えた。
 2月6日の第11回公判。「小学校の時、障害者はいらないという作文を書きましたね」。美帆さんの遺族に代わって被告人質問に立った滝本弁護士は、園の元職員植松聖(さとし)被告(30)に投げかけた。被告ははっきり「はい」と応えた。被告はその後、その作文に教員が何もコメントしなかったことを明かした。
 「意思疎通がとれない重度障害者は殺す」。植松被告の動機は、やまゆり園に勤務して以降、身につけたものとして審理は進んだが、滝本弁護士は幼少期から障害への悪意や侮蔑感があったと考えている。滝本弁護士はこの質問に、障害への悪意や侮蔑感を明らかにし、被告の生育歴や思考の源流をたどる必要性を示す狙いを込めたという。
 被告が通った学校には複数の障害児がおり、園も被告が通った学校の学区内にある。非常に共生社会的とも言える環境で育った。
 「障害者への否定的な発言はなかった」との同級生の証言もあったが、作文や障害のある生徒への暴力など、侮蔑感を示す断片的なできごとも、法廷では明らかになった。滝本弁護士は「障害者はいらないって、体験に基づいて言ってるんですよ」と指摘する。
 被告は法廷でも、その主張を繰り返した。その発言はこの国のあり方に突きつけられているという。
 それなのに、国は力のあるメッセージを発していないと、滝本弁護士は訴える。「暴力で被告人が言う『安楽死』を実現し、政治を動かそうとした『テロ』だ。重度障害者は生きていてほしい、生きていける社会にするんだと、国が言ってくれないと」
 人が生きている意味とは何か、まともな社会とは何か。「困難な問いを乗り越え、しっかりと理由を示した判決を地裁は下してほしい」という。
 たきもと・たろう 1957年1月生まれ。神奈川県出身。1989年11月の坂本弁護士一家殺害事件をきっかけに「オウム真理教被害対策弁護団」で活動中、自らも襲撃された。宗教トラブルに詳しい。
https://digital.asahi.com/articles/ASN3H5G06N2YULOB00Q.html?iref=comtop_8_06



<金口木舌>緊急事態宣言(2020/3/16琉球新報)
 国の新法をたたいた新聞「町の日常」が廃刊になった。次の標的は本。図書館や本屋から次々に撤去され、情報の入手方法は「茶色新報」「茶色ラジオ」のみ
▼心理学者フランク・パヴロフ著の「茶色の朝」は全体主義に染まる架空の社会を描き、思考を停止するなと警鐘を鳴らす。フランスで発行され、2003年に日本語版も出された
▼現実の話はヒトラーのナチス・ドイツ。優生思想を掲げ、ユダヤ人や障がい者を迫害・大虐殺し、国内を一党独裁の一色に染めた。その手段の一つとしてワイマール憲法48条の緊急措置を利用した
▼1919年施行のワイマール憲法は大統領と国会議員を選挙で選ぶ二元代表制。当時最も民主的な憲法とされた一方、大統領の緊急措置権を定め、公共の安全のため非常時に私権を制約できた。結末はご存じの通り
▼インフルエンザ等対策特別措置法が改正され、国民の私権制限につながる緊急事態宣言が可能となった。2013年、麻生太郎財務相が改憲に絡む講演でナチスに触れ「あの手口、学んだらどうかね」と発言したことを忘れてはいけない
▼法整備が性急に進んだ大戦前夜の時代と重なる。今回の新型肺炎騒動でさいたま市はマスク配布先から朝鮮学校を除外し、横浜中華街の中国人店主らには「日本から出て行け」とヘイトの手紙が届く。今朝、果たして世界は何色だろうか。
https://ryukyushimpo.jp/column/entry-1090590.html



障害ある子生まれ「おめでとう」と言えますか 木村議員(2020/3/15朝日新聞)
 相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で利用者19人の命が奪われるなどした事件の判決が、16日に予定されている。元職員である被告の言葉をどうみるか。事件が繰り返されないためには――。重い身体障害があり、18歳までの大半を施設で暮らした、れいわ新選組の木村英子参院議員(54)は、障害のある子の誕生に「おめでとう」と言える社会かどうかを問う。どういうことなのか。
殺されていたのは私かも
 彼の言葉は心の傷に触れるので、集中して公判の報道を見ることができませんでした。施設にいたころの傷ついた自分の気持ちに戻っていくのです。
裁判で被告は「意思疎通のとれない人は社会の迷惑」「重度障害者がお金と時間を奪っている」などと語った
 彼が言っていることはみなさんにとっては耳慣れなくて衝撃的なのでしょうが、同じような意味のことを私は子どものころ、施設の職員に言われ続けました。生きているだけでありがたいと思えとか、社会に出ても意味はないとか。事件は決してひとごとではありません。19歳で地域に出ていなければ、津久井やまゆり園に入所していたかもしれない。殺されていたのは私かもしれないという恐怖が今も私を苦しめます。
 私は横浜市で生まれ、生後8カ月のときに歩行器ごと玄関から落ち、首の骨が曲がる大けがをして重い身体障害を負いました。小学5年から中学3年の5年間を除き、18歳までの大半を施設で暮らしました。
 入所は親が決めました。重い障害のある私に医療や介護を受けさせたいという責任感と、施設に預けなければ家族が崩壊しかねなかった現実からです。私には24時間の介護が必要です。親は疲弊し、一家心中をしようとしたことも何度かあった。親が頼れるのは施設でした。

 やさしい職員もいましたが、私にとっては牢獄のような場所でした。施設が決めた時間に食事をしてお風呂に入って、自分の暮らしを主体的に決めることがない。食事を食べさせてもらえないことも。一番嫌だったのは「どうせ子どもを産まないのに生理があるの?」という言葉です。全ての施設がそうだとは思いませんが、私がいたのはそういう施設でした。時代が変わっても施設とはそういうものだと私は思っています。
 プライバシーも制限され、自由のない環境で希望すら失い決まった日常を過ごす利用者を見た人たちが、「ともに生きよう」と思えるでしょうか。偏見や差別の意識が生まれたとしても不思議ではありません。
 私は、被告だから事件を起こしたとは思えない。
公園で浴びた排除の視線
裁判では、新たな事実が明るみに出たものの、事件に及んだ動機や真相は十分には解明されなかった。同じような事件を繰り返さないためにどうすればいいのか
 被告を罰しただけでは社会は変わらない。第2、第3の被告を生まないためには、子どものころから障害者とそうでない人が分け隔てなく、地域で暮らせる環境をつくることが必要です。
 私が望むのは、障害のある子どもが生まれたとき、「おめでとう」と言える社会。私は親から施設に捨てられた、歓迎されない命だという思いを抱いて生きてきました。うしろめたい存在だと思うことも、絶望感のなかで仕方のないことだとあきらめていた。歓迎されない命などない、と気づいたのは19歳で地域に出てからです。
 23歳で結婚し、息子を出産しました。不安だったのは、子どもをかわいいと思えるかでした。母に抱かれた記憶があまりない私は、母に対する愛情が持てなかった。でも出産した時は、子どもへのいとおしさがこみあげました。
 公園デビューをしたときのことです。息子と子どもたちが砂場で遊んでいるのを、車いすに乗った私が近くで見ていました。だれも私が母親だとは思っていない。私が息子に声をかけ、私が母親だとわかった瞬間、周りのお母さん方が自分の子どもを抱き上げて帰ってしまった。自分の子どもが私に近づくと「そっち行っちゃダメ」。小学校の授業参観でも教室が狭くて、他のお母さんたちが入れないので「詰めていいですよ」と言っても、半径1メートル以内には近寄ってこない。
 私と関わると厄介なことになる、巻き込まれたくない、といった意識が働くのでしょう。本人たちは差別とは思っていませんが、あからさまな差別です。障害のある人とそうでない人を分けることによってお互いが知り合う機会を奪われることから差別は生まれます。社会から排除することそのものが差別なのです。
 地域で暮らして35年。福祉サービスは増えましたが、重度訪問介護が就労中などに公的負担の対象外だったり、移動支援が自治体により差があったり。普通学校への入学が重度障害を理由に認められない例もある。こうした課題をみんなで解決できたとき、障害のある子が生まれて「おめでとう」と言える社会になる。それが事件を乗り越えることになるのではないでしょうか。
https://digital.asahi.com/articles/ASN3B5WR9N32UTFL01G.html?iref=comtop_8_06



(声)多目的トイレ、もっと増やして 盲学校生 濱田諒太朗(埼玉県 14)(2020/3/15朝日新聞)
 私は目が全く見えておらず、幼稚部から盲学校に通っています。生活する上で不便なことはたくさんありますが私にとって特に必要なのは多目的トイレです。外出してトイレに行くたび、いちいち心配しなければなりません。
 この間お店に行った時のことです。多目的トイレがありませんでした。仕方なく一般のトイレを使いましたが、トイレットペーパーの位置が分かりにくく困りました。多目的トイレだと手すりを目印にトイレットペーパーや水道の位置を確かめることができます。
 また多目的トイレは荷物置き場も広く、何より周りを気にせず、ゆっくり落ち着いて使用できます。お店や駅にもっと増やしてほしいと思います。
 今年は東京オリンピック・パラリンピックが開催されます。外国から多くの障害者が訪れるでしょう。でも日本での障害者への配慮はまだまだ足りていないと思います。まずはトイレからバリアフリーを広げてほしいです。(点字で投稿)
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14404042.html?iref=mor_articlelink05



(声)育み育まれる命、つないでゆく 保育士 寺井薫(神奈川県 57)(2020/3/15朝日新聞)
 昨春、勤務先の保育園に色白の美しい5歳の女の子が入園しました。出生体重は600グラム余り、重度重複障害があります。それまでも多くの人々の誠実な関わりがあったでしょう。小さな命がつなげられ、私にも委ねられたことに厳粛な思いを抱きました。
 当初、祈るような気持ちで彼女の指先に触れ、語りかけたこと。まなざしが初めて合い、声を聞かせてもらえたこと。鼻先にかざしたユズの香りで口元に笑みがこぼれたこと……彼女が渾身(こんしん)の力で精いっぱい表現したものばかりです。
 そうした一つひとつの所作に、彼女自身の内側には生きることへの深く豊かな力が備えられていると気づきました。それを表現する手段が少ないため、外とつながりにくく誤解される状態があると感じます。
 彼女は確かに多くの人々の支えを受けて育まれています。でも同時に多くの人々が彼女との出会いを通じ、新たな自分を発見し育まれていると私は感じています。彼女と出会えたことに感謝しています。
 子どもたちの躍動する「育つ力」に触れつつ耳を澄まし目を開き、私も育てられていきたいと思います。
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14404040.html?iref=mor_articlelink03



(社説)感染症と学校 安全と日常 両立探って(2020/3/15朝日新聞)
 突然の全国一斉休校から2週間になり、当初からのさまざまな懸念が現実になっている。
 子どもが登校できないことで保護者の仕事が制約される。非正規雇用のひとり親をはじめ、多くの人が家計の悪化や雇用の不安に直面している。
 新型コロナウイルスの流行が長期化する見通しとなった今、感染拡大の防止と生活・心の安定との均衡をどう図るか、冷静に考え、実践する必要がある。新学期に向け、地域ごとに流行の様子を見ながら、多くの人が納得できる方策を探りたい。
 このところ、いくつかの地域で休校解除の動きが出てきた。
 たとえば兵庫県明石市は、あす16日から市立の学校と幼稚園を再開する。「働きに出られない」「子どもが日中過ごせる場所がない」といった家庭の実情を重くみた。児童生徒に毎日検温させ、教室は1時間に1回換気するなどの対策を施す。登校しなくても欠席扱いにしない。現実的な判断といえよう。
 静岡市や浜松市なども、同日から休校を解除する方針だ。大阪市は春休みに中学の部活動を再開し、新学期から小中学校と幼稚園を開きたいという。
 もちろん状況が変われば判断を見直す柔軟さが求められる。当初、登校を続けていた群馬県太田市などは、感染者の発生を受けて休校に転じている。
 直ちに再開に踏み切れなくてもできることはある。茨城県つくば市は、休校中も小中学校を開放し、希望者は登校しても良いことにした。机の間隔をあけて座り、給食は向かい合わせで食べないように配慮する。
 利用者は4割弱。給食を希望制にしたところ、大半が申請した。各家庭が昼食準備に困っている現実を映す。同市に限らない。生活が苦しく、給食に栄養を頼っていた子は、もっと深刻な環境にいるに違いない。
 子どもの受け皿としては学童保育もある。だが多くは給食がないうえ、狭い部屋に大勢が集まるので、かえって感染が心配だという声も聞く。学校開放はもっと検討されていい。
 子ども食堂も多くが休止を強いられている。問題は食事だけでなく、子に居場所を提供できないことだという。貧困対策の学習支援も活動が止まる地域が出ている。こうした安全網のゆらぎは親子の心身の健康を害し、虐待リスクを高める。徐々に平常に戻す道を探りたい。
 残念なのは、公園で遊ぶ子にも目くじらを立てる人がいることだ。屋外での運動や散歩まで過剰に制限する理由はない。大人が冷静さを失えば、子どもを動揺させるだけだ。
 完璧な安全などない。心を広く持って長期戦に備えよう。
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14404039.html?iref=comtop_shasetsu_01



【社説】週のはじめに考える 困難から得られるもの(2020/3/15東京新聞)
 いまあちこちで売り切れになっているものがあります。マスクやトイレットペーパーではありません。「ペスト」という本です。
 フランスのノーベル賞作家カミュの代表作の一つ。一九四七年の出版です。新型コロナウイルス問題が大きくなってきた先月以降売れだし、増刷されました。海外でも広く読まれているそうです。
 舞台は、感染症のペストに襲われたアルジェリアの都市。
 ネズミの死骸が相次いで発見されます。病原菌が人間に広がって犠牲者が増えていき、街が封鎖される過程を描いています。
◆予言にすがる市民
 テーマは感染症ですが、本当はナチス・ドイツ占領下の欧州をモデルにしたものでした。
 今読むと、実際に起きたことの記録ではないかと錯覚するほどの現実味に圧倒されます。
 例えば、ペストが発生しているにもかかわらず、行政は市民に不安を与えないことを優先して、思い切った手が打てず事態を悪化させてしまいます。
 犠牲者の数が増えても市民は「一時的なものだ」と楽観していました。商店や事務所が閉鎖され、行き場を失った人たちは街頭やカフェにあふれます。
 感染拡大を防ぐため、突然街が封鎖。多くの人が別れを強いられ、手紙のやりとりさえできなくなってしまいます。
 病気の影響で交通がまひし、電車が唯一の交通手段になりました。乗客は、背を向け合ってお互いの感染を防ごうとしました。
 人々は「予言」にすがるようになり、新聞は、市民による「平静、沈着な感動すべき実例」に関する記事であふれました。
 ペストの流行が突然収まり、人々が喜び合うというところで物語は終わっています。多くの人に読まれている理由がようやく分かった気がしました。この本の中では、ペストの流行が約九カ月で終息する設定になっているのです。
 新型コロナウイルスが下火になる時期は残念ながら、まだはっきりしていません。
 日本では感染防止のため小中高校が休校となり、人が集まる大規模な行事が軒並み中止になっています。日に日に春の気配が強まっていますが、人通りが減り、活気が失われてしまいました。
 心の痛む事態も起きています。パンデミック(世界的大流行)と認定されたこともあって、世界の国々が他国の防疫体制を批判し、入国制限を厳しくしています。排外的な行動も目立ちます。
 ウイルスの特性から、避けがたい面もありますが、感染防止という同じ目標に向かっているはずです。いがみ合うよりも経験を分けあい、協力すべきでしょう。
◆弱者の存在に注目
 歴史的に見ると世界はこれまで、たびたび感染症にさらされてきました。代表的なのは小説に出てくるペストやスペイン風邪、コレラ、エボラ出血熱などです。
 十四世紀、欧州でペストが大流行します。致死率が高く人口の三分の一が失われたとの見方もあります。一方で社会的弱者の存在を浮かび上がらせ、対策が進むというプラス面もありました。
 労働者の数が減ってしまったため賃金の上昇が起き、一時的でしたが、不平等や格差の是正が実現したというのです。
 これは、歴史学者として知られるウォルター・シャイデル米スタンフォード大学教授が、「暴力と不平等の人類史−戦争・革命・崩壊・疫病」という本の中で、指摘していることです。
 これほど極端ではありませんが、最近も例があります。
 中国では、二〇〇二〜〇三年に重症急性呼吸器症候群(SARS)が流行。医療費が払えず十分な治療を受けられない貧困層がこの病気にかかり、いっそうの生活苦に陥ったため、政府は生活保護制度を拡充しました。
 日本では今、学校が休校になったことで共働き家庭が子どもの預け先に困っています。満員電車で通勤する人たちの感染の危険にも、関心が集まりました。
 こういった状況の中で、助け合ったり、働き方を工夫する動きが出てきました。社会は今後、大きく変わっていくかもしれません。
◆知識と記憶の価値
 出口の見えないこの状況をどう乗り切るのか、われわれは試されている気がします。
 小説「ペスト」の中に、こんなくだりがあります。「ペストと生とのかけにおいて、およそ人間がかちうることのできたものは、知識と記憶であった」と。
 カミュは、不条理の作家と呼ばれます。なぜ、正体がはっきりしないウイルスが大流行するのか。
 まさに「不条理」の極みですが、困難な状況の中でも人は何かを得ることができる。カミュは作品を通じて、こう伝えたかったのではないでしょうか。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2020031502000172.html



(社説)検察庁法改正 許されぬ無法の上塗り(2020/3/14朝日新聞)
 法をまげたうえで、さらに法の本来の趣旨を踏みにじる行いを重ねるという話ではないか。納得できない。
 国家公務員の定年延長にあわせ、検察官の定年を63歳(検事総長のみ65歳)から65歳に段階的に引き上げる検察庁法改正案が、国会に提出された。
 見過ごせないのは、63歳以上は高検検事長や地検検事正といった要職に就けないとしつつ、政府が判断すれば特別にそのポストにとどまれる、とする規定を新たに盛り込んだことだ。
 安倍内閣は1月末に東京高検検事長の定年を延長する閣議決定をした。検事総長に昇格させるための政治介入ではないかと不信の目が向けられている。
・・・ 政治家が特定の人物を選び、特別な処遇を施すことができるようになれば、人事を通じて組織を容易に制御できる。その対象が、政界をふくむ権力犯罪に切り込む強い権限を持ち、司法にも大きな影響を与える検察となれば、他の行政官と同列に扱うことはできない。
 戦後、三権分立を定めた憲法の下で制定された検察庁法は、その問題意識に立ち、検察官の独立性・公平性の担保に腐心した。その一環として、戦前あった定年延長規定は削除され、歴代内閣は検察人事に努めて抑制的な姿勢をとってきた。
 だが安倍政権は公然とその逆をゆく。延長の必要性について森雅子法相は、「他の公務員は可能なのに検察官ができないのはおかしい」という、検察の職務の特殊性や歴史を踏まえぬ答弁を繰り返すばかりだ。
 さらに今月9日の国会では、定年延長が求められる社会情勢の変化として災害を挙げ、「東日本大震災時に検察官が最初に逃げた」などと唐突に述べた。不適切な発言として首相から厳重注意を受けたが、支離滅裂ぶりは目を覆うばかりだ。きのうも議員の質問に答えない理由を「行政裁量だ」と言い放った。閣僚としての資質を著しく欠き、この法相の下でまともな審議が成り立つとは思えない。・・・
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14402436.html?iref=comtop_shasetsu_02



【社説】特措法の改正 独断への懸念は消えぬ(2020/3/14東京新聞)
 改正新型インフルエンザ等対策特別措置法(特措法)が成立した。新型コロナウイルスによる感染症の拡大に備え、あらゆる対策が必要なのは確かだが、政府の独断を許す懸念は残ったままだ。
 私権を制限する権限を政府や自治体に与える法律だ。一度立ち止まり慎重な議論をすべきだったが、改正案の国会審議はわずか三日で成立した。
 法案審議では、制度の不備を改善するための議論が十分になされず、新型コロナ感染症に対しても政府は緊急事態を宣言し権限の行使ができるようになった。
 国会が役割を果たしたとは言い難い。
 緊急事態が宣言されれば政府や自治体が外出の自粛要請や、劇場、学校などの使用制限の要請・指示ができる。集会や移動の自由が大きく制限されかねない。
 土地などを所有者の同意なしに強制使用できる権限もある。
 不透明なのは政府が宣言を出す際の手続きだ。国民の生命や健康に重大な被害を与える恐れがあり、全国的かつ急速なまん延で国民生活と経済に甚大な影響を及ぼす恐れがあると政府が判断する場合だが、改正法でもどういう場合に該当するのかあいまいだ。
 政府は宣言発令の際、専門家の会議に諮ると言うが、全国知事会が判断基準の明確化を求めているのもうなずける。
 野党は、事前の専門家への諮問や国会承認を要件に加えるよう求めたが、法案修正はされず、強制力のない付帯決議に国会への事前報告を盛り込むことで決着した。
 だが、政府が「緊急でやむを得ない」と主張すれば事前報告は骨抜きになる。これだけ私権を制限する権限を与える法律だ。政府判断が妥当なのか監視するために、国会の事前承認は不可欠だろう。
 二〇一二年の特措法成立時の付帯決議では、不服申し立てなど私権制限に関係する権利利益を救済する制度の整備を求めている。
 この課題の置き去りも無視できない。実際に安倍晋三首相がイベント自粛や一斉休校を専門家の意見を聞かず独断で決めたことで、国民生活に混乱が広がっているからだ。経済対策が後手に回るだけではなく、人権への配慮も足りないのではないか。・・・
https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2020031402000147.html



<新型コロナ>改正特措法「緊急事態宣言」なら 抗議集会、できなくなる(2020/3/14東京新聞)
 新型コロナウイルスの急拡大に備える改正新型インフルエンザ等対策特別措置法が十三日に成立し、政府は同ウイルス感染症にも緊急事態宣言を出し、個人の権利を制限できるようになった。私権制限は二〇一二年の特措法制定時に盛り込まれ、日弁連が反対声明を出した。当時、日弁連事務総長だった海渡雄一弁護士に、改正特措法の課題を聞いた。 
 −緊急事態宣言が出た場合、市民生活にどんな影響が出るのか。
 「例えば誤った政府の政策に対して、集会で抗議できなくなる。都道府県知事は集会や音楽、スポーツイベントなどの開催制限の要請、指示が可能になる。これは実際には禁止といえる。政府がNHKなどに指示を出す仕組みもある。報道機関の権力からの独立や報道の自由が確保されず、重要な情報が伝えられない可能性がある」
 −知事は住民に外出の自粛も要請できる。
 「経済が完全に停滞してしまうだろう。戒厳令が出たようになっていくのではないか」
 −衆参両院で、緊急事態宣言の発令時に、国会への事前報告を求める付帯決議が採択された。
 「付帯決議には法的拘束力が無い。法律に書き込まないと、ほごにされても文句の言いようがない。改正特措法では、事前はおろか事後の国会承認も必要とされていない」
 −必要な歯止め策は。
 「宣言発令について、国会の事前承認や国会の権限で解除する仕組み、民間の有識者を入れた検証組織などのストッパーがあれば、乱用されにくくなる」
 −安倍晋三首相は緊急事態を巡り、現状は「そういう事態ではない」と言っている。
 「欧州や韓国などから、日本はきちんと検査をしていないと非難されている。現実には宣言が必要な状態かもしれない。きちんと検査も受けさせないまま突然、議事録を残さない場で小中高校などの全国の一斉休校要請を決め、混乱を生んだ。そうした政権に、強権を与えるのは危険だ」
 −今、急ぐべき対策は。
 「検査態勢を改め、経済的な困難に直面している企業や個人に支援の手を差しのべることだ。感染者が次々と発生している場所や、クラスター(感染者集団)の発生を正確に把握できれば、緊急事態宣言もその地域に限定でき、経済的な打撃も少なくて済む」
<かいど・ゆういち> 1955年生まれ。弁護士。2010〜12年に日弁連事務総長。現在、脱原発弁護団全国連絡会共同代表、NPO法人監獄人権センター代表。編著書に「市民が明らかにした福島原発事故の真実」「戦争する国のつくり方」など。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/202003/CK2020031402000134.html



【茨城】常磐線、きょう全線開通 被ばくの懸念 根強い声(2020/3/14東京新聞)
 東京電力福島第一原発事故の影響で不通が続いてきたJR常磐線富岡(福島県富岡町)−浪江(同県浪江町)間の二〇・八キロで十四日に運行が再開し、茨城県民になじみ深い鉄路が九年ぶりに全線開通する。しかし、不通区間の駅周辺の避難指示は解除されたものの、一帯は放射線量の高い帰還困難区域のままだ。県内の労働組合や沿線住民の間からは、放射線被ばくによる健康被害を懸念する声が根強い。 
 JR東日本の社員らでつくる労働組合「動労水戸」の調査によると、試運転で帰還困難区域を通過した車両のフィルターに付着したちりから一キロ当たり二三五〇ベクレルのセシウム137が検出され、放射能濃度は通常の車両より二十三倍も高かった。動労水戸は調査結果を踏まえ、帰還困難区域内を通過する車両の線量測定のほか、車両整備員の被ばく防止教育や防護用具の配備を要求したが、JR側は「車両の測定を実施する考えはない」と拒否している。
・・・ 動労水戸は十三日、ひたちなか市のJR東日本勝田車両センター前で抗議活動を展開し、約二十人が「会社は車両の線量を測れ」「労働者を被ばくさせるな」「乗客を守れ」などとシュプレヒコールを上げた。
 車両センターでフィルターの洗浄作業に携わっている整備員は約五十人。木村郁夫委員長は「毎日のように放射性物質が付着した車両が入ってくるが、現状のままでは労働者が健康を害し、命を失う危険さえある」と警鐘を鳴らす。
 牛久市の主婦(62)は全線開通に疑問を抱き、勉強会を開いたり、JRに問い合わせたりしてきた。「JRは観光PRばかりで、帰還困難区域内を通過する点には触れない。車両を測定せず、社員の健康を守ろうとしない姿勢では、乗客の安全も心配だ」と不信感をあらわにする。
◆専門家ら疑問視 
 福島第一原発事故を経験した元首長や専門家も常磐線の全線開通を疑問視する。
 原発事故当時の福島県双葉町長で、町民の県外避難を指揮した井戸川克隆さん(73)は「原発事故の悪いイメージを早く払拭(ふっしょく)し、東京五輪という大行事に国民を熱くさせるためだ」と指摘した上で、「放射能汚染を示す数字はごまかせても、重要な交通インフラの鉄道が開通していない物理的実態は隠蔽(いんぺい)できないので、無理な開通をさせた」と断じる。
 原発の危険性を告発してきた元・京都大原子炉実験所助教の小出裕章さん(70)も「(不通区間は)本来なら放射線管理区域に指定しなければならない場所。公共の交通手段が乗り入れるなんてあり得ない」とあきれる。
 放射線管理区域は、原発や放射性物質を取り扱う研究機関や医療機関で設定され、作業者や周辺住民の被ばくを基準以下に抑えるため、人や物の出入りを厳重に制限している。
 一般人に許容される年間被ばく量は一ミリシーベルトだが、福島第一原発事故による避難指示に当たって年間二〇ミリシーベルトに緩和。国は今月、緩和した基準に基づき、不通区間の夜ノ森(富岡町)、大野(大熊町)、双葉(双葉町)の三駅と線路、周辺道路の避難指示を解除した。
 小出さんは「二〇ミリシーベルトというのは、かつての私のような放射線業務従事者が、給料をもらう引き換えにようやく受け入れさせられる線量。それを子どもも含めて適用するなんて論外だ」と指弾した。 
https://www.tokyo-np.co.jp/article/ibaraki/list/202003/CK2020031402000170.html



<金口木舌>学ぶ意欲に目を向けて(2020/3/14琉球新報)
 10年前のことだ。成人式を前に南風原町立南星中出身の若者12人が、17歳で他界した同期生の自宅を訪ね、仏壇に手を合わせた。その模様を取材し、小中学校時代の思い出を聞いた
▼同期生は故大城ちなみさん。脳性まひの障がいがあり会話も難しかった。ちなみさんは両親の働き掛けがあり、特別支援学校ではなく地元の小中学校で学んだ。当時、重度障がいのある子が地域の学校に通う先例はなかったという
学校では生徒が交代で車いすを持ち上げ移動を助けた。車いすのタイヤに雑巾を結び一緒に清掃をした。共に学び共に育つ。支援する側もされる側もない。話を聞いて実感した
▼県内でも重度障がいのある児童生徒が地域の学校に通う事例は増えている。知的障がいのある仲村伊織さんもその一人。北中城中学を卒業し、県立高校への入学を目指している。3度目の一般入試に挑んだがかなわなかった
▼受験した高校は「教育課程をこなすには至らない」と判断した。教育課程の履修見込みのない人の入学は適当ではないという考え方が垣間見える。「学力」に偏らず「学ぶ意欲」を評価する仕組みがあってもいい
▼大阪府や千葉県には重度知的障がいのある生徒を受け入れている高校がある。先進地から学べることは多いだろう。生徒は多様な人々の生きる社会へ出ていく。共生社会に向けて学校の在り方を考える。
https://ryukyushimpo.jp/column/entry-1089855.html


posted by オダック at 22:30| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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